Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 55 話  [きみ][]
「――なぜ、貴様がユウザ様のお部屋に居る?」
 合図[ノック]と同時に、戸口から顔を覗かせた大男――ナザル・ベークは、口を開くなり、眉間に深い皺を寄せた。
 久しぶりに見る彼の顔は、やっぱり熊みたいだ、とサイファは思った。これが、あの華奢で美しいエリスの息子だというのだから、世の中は不思議に満ちている。
「今日から、皇太子殿下付きの女官になったんだ」
 よろしくな、と笑顔で挨拶したら、ナザルは眉間の皺を更に深くした。
「何を馬鹿げたことを! 夜毎の逃走騒ぎだけでは飽き足らず、今度はユウザ様のお傍で悪さをするつもりか!?」
「あんた、バカか?」
 彼の被害妄想的発想に、そんな事する訳ないだろ、と溜め息を[]き、サイファは、さっさと掃除の続きに戻った。
 モーヴには、ユウザの身の回りの世話だけすればいいと言われてあったが、主人が留守の間、ただボーッと過ごすのは、もったいない。寝具の交換や洗濯といった、専門の係がいる仕事にまでは手出しできないが、棚に[はた]きをかけたり、机を拭いたり、やろうと思えばやれる事が、たくさんあった。
「誰がバカだ、無礼者!」
 声を荒げたナザルの鼻先に、サイファは持っていた叩きをスッと突きつけた。そして、彼の栗色の瞳を、ひたと見据える。
「あんた、お母さんから何も聞いてないのか?」
「は? お母さん?」
「なら、いい」
 キョトンとしたナザルを見て、あっさり叩きを下ろす。
 自分の任務は、本当に極秘なのだと思った。実の息子にまで伝えていないエリスの真意が、何処にあるのかは判らないけれど。
「それより、あんたこそ何しに来たんだ? こんなとこでサボって、帝都防衛隊はそんなに暇なのか?」
「重ね重ね無礼な女だな、貴様は。ユウザ様から、お召しがあったのだ」
 馬鹿だ、無礼だ、と口は悪いが、何だかんだ言って、ナザルは人がいい。サイファの質問に、ちゃんと答えてくれる。
「ユウザなら、未だ戻ってないよ?」
 議会が終わるのは昼を少し回る頃だと聞いていたが、予定の時刻はとうに過ぎていた。そろそろ、帰ってきても良い時間である。
「こら、貴様! ユウザ様を呼び捨てにするとは、どういう了見だ!」
 彼女の何気ない台詞に、ナザルは目角を立てた。
「ああ、それね。あたしもさ、これを機に改めようと思ったんだけど……」
 サイファは微かに眉を寄せた。
 皇太子付きの女官として、主人に恥をかかせることのないように、言葉遣いも態度も、きちんと正す覚悟でいた。それなのに、当のユウザに拒まれたのだ。
『猫を被ったお前など、気持ち悪くて見たくもない』
 全く、酷い言い草だと思う。
「だからと言って、呼び捨てはならん! 失礼にも程がある」
「いや、それもさ、あいつが嫌だって言うんだよ」
 渋い顔で言うナザルに、サイファは思わず愚痴をこぼした。
『私の名に様≠ネどつけて呼んでみろ?』
 絶対に返事をせぬからな、と、然も嫌そうに言ったユウザの顔が、ありありと目に浮かぶ。
 自分の敬語は、それほどまでに聞き苦しいのかと、半ば本気で落ち込んだサイファである。これでは、自分を指導してくれているモーヴに、申し訳が立たない。
 しかし――。
「……全く、ユウザ様らしい」
 ぼそりと呟いて、ふっと、ナザルが眉尻を下げた。そして、問わず語りに続ける。
「まだ幼かった頃、親の用事で皇宮についてきた宮人の子が、ユウザ様を皇孫殿下と知らずに話しかけてしまったことがあってな。ユウザ様は、昔から、ああいうお方だから、ご自身の身分も明かされず、普通に接していらっしゃったのだが――」
 同年代の子供同士、二人は仲良く遊んでいたが、子を探しに来た親がユウザを認めた途端、事態が変わった。
 父親は、その場に平伏[ひれふ]して非礼を詫び、あろうことか、子の命乞いまでした。身分も弁えぬ幼子が故の不敬。何とぞ、お目溢し下さい、と。
 だが、それだけなら、まだ良かったのだ。
 つい先ほどまで、一緒に声を上げて笑っていた男の子の顔が、親の態度に引きずられるようにして卑屈に歪んだのが、成り行きを見守っていたナザルの目にも、はっきりと映った。胸に苦いものがこみ上げる中、そっと、隣のユウザを見遣ると――。
「あの時のユウザ様のお顔は、今でも忘れられん」
 悲しみと、諦めと、嘲りと……およそ子供らしからぬ、固く凍りついた眼差し。身分の差を意識した瞬間に、翻される真心――不実な忠義の在り方に、ユウザは静かに憤っていた。
「あの方は、本来、とてもお心の清らかな、真っ直ぐなお人なのだ。その潔白な魂に、これ以上、世俗の垢をつけてはならないと、あの日、私は神に誓った」
 自分が持てる力の全てで以って、この小さな[あるじ]を守り抜く、と――。
「その誓いは、今でも変わらん。物心ついた時から、ずっとユウザ様にお仕えしていたが、生涯、この身を捧げると決心したのが、あの瞬間だった」
 そう言って、目を細めたナザルの顔を見て、サイファはドキリとした。
(ホントに、あいつのことが大好きなんだな……)
 彼の男臭い容貌に浮かぶのは、不釣合いなほどの優しい笑み。まるで、牙をもがれた獣である。
「いい主従関係だな」
 サイファが微笑むと、ナザルは急に我に返ったように動揺し出した。
「何と、私としたことが、なぜ貴様なんぞに、こんな話を……」
「今さら、照れなくていいよ」
「誰が照れるか!」
 明らかに赤くなったナザルを肘で[つつ]いて、からかっていた時だった。
 いきなり、合図もなしに扉が開かれた。モーヴを従えた居室の[ぬし]が、翡翠色の長衣の裾を蹴立てながら、大股に部屋を横切ってくる。
「待たせたな、ナザル!」
 張りのある、力強い低音。
「出しなに、狸に捉まってしまってな」
 肩をすくめてみせたユウザは、まあ、かけてくれ、と言って、ナザルの背を軽く叩いた。
「はっ!」
 畏まって一礼した彼は、主人が向かいに腰を下ろすのを待ってから、席に着く。
「時間がないので、手短に言う。ああ、その前に、モーヴ! 午後からの支度は整っているか?」
「はい。いつでも、ご出発いただけます」
 老執事がそつなく答える。
「結構。それと、悪いが昼食は移動中に済ませたい。あと二十分もすれば発つゆえ、それまでに適当に用意しておいてもらえると助かる」
「畏まりました」
 急ぎ手配いたします、と言い残し、モーヴは身を翻した。
 それを手伝おうと、サイファが一歩踏み出しかけた時、彼の腕にさり気なく阻まれた。
「貴方は、ユウザ様のお傍に」
 わずかに顔を振り向けたモーヴに、低い小声でたしなめられる。
 サイファはハッとして、頷いた。自分は、ただ女官の仕事をしていれば良い訳ではないのだった。
 壁際に立ち、そっとユウザとナザルの会話に耳を澄ませる。
此度[こたび]は、父上の暗殺未遂事件のせいで、帝都防衛隊の手を煩わせる羽目になって、相すまなかった」
「いえ、そのようなことは! こちらこそ、ユウザ様のお留守の間、都の平穏を預かるなどと豪語しておきながら、誠に不甲斐なく――」
「お前が気に病むことはない。父上のご不運は、皆が言うように、身辺警護の甘さも要因の一つとなっていた。それより、ファルスから聞いたのだが、今回の事件の捜査権が、管轄である帝都防衛隊にないというのは、誠か?」
「はい。アグディル殿下の凶報と、ミストリア宮警備の命を受けたのが同時だったのですが、今回は事件が事件なだけに、皇家の方々に対する取調べが必須ということで、近衛が全権を掌握し、我々は、その指示に従うようにとのお達しでございました」
「なるほど……」
 何事か考え込むような目をしたユウザは、しかし、すぐさま話題を変えた。
「ところで、近頃の隊の様子は、どうだ?」
「はっ、ユウザ様が去られた直後は、だいぶ志気が下がりましたが、最近では、いつでも殿下のお役に立てるようにと、皆、懸命に働いております。特に、副隊長のファルス・クラウゼが、私の良き片腕となって、補佐してくれています」
「そうか……」
 頷いたユウザの表情に、安堵と迷いが同時に浮かんだように見えた。かつては、殆ど無表情に思えた彼の、ほんのわずかな感情の起伏を、少しずつではあるが、読み取れるようになってきた。
「あのな、ナザル。せっかく帝都防衛隊長という大役に抜擢されたばかりというのに、たいへん申し訳ないのだが――」
 ユウザが心苦しげにナザルを見つめる。これからは私の傍で働いてくれまいか? と。
 その様子を見て、サイファは、わかってないな、と思った。そんな気の毒そうな顔をする必要などないのだ。
 だって、彼は――。
「ああ、我が君!」
 椅子を鳴らして、ナザルが満面の笑顔で立ち上がった。それから、ユウザの足元に跪き、長衣の裾に恭しく口づける。
「もちろん、喜んで――」
 一生、殿下のお傍に。
「相変わらず、大仰だな」
 困ったような、何処か照れくさそうな顔で、ユウザは笑った。しかし、すぐに表情が改まる。
「ありがとう、ナザル。恩に着る。して、早速だが、お前に頼みたいことがあってな――」
 言いさして、ユウザがこちらを見た。
「悪いが、外してくれ」
 サイファを真っ直ぐに見て、戸口を指さす。
 一瞬、どうしようか迷ったが、大人しく従うことにした。一礼して、部屋を辞する。
 相手がナザルなら、仕方がないと思った。
 でも、本当に用心しなければならない相手の時には、力いっぱい抵抗して、何が何でも傍に居座ってみせる。
 サイファは決意を新たにした。
 ユウザ自身の協力が得られない中、ずっと彼の傍らに居続けるのは、本当に難しいことだった。
 用意した弁当と共に、サイファは侍従の控えの間で待機していた。もうすぐ、ユウザが言っていた出発の時刻である。
「なぁ、モーヴ爺さん、神殿巡りって、本当に半日で終わるもんなの?」
 既に、十三時を過ぎていた。これから、六つもの神殿を拝んで回るというが、いくら都内とはいえ、果たして、全て巡り終えることができるのだろうか?
「勘例からすれば、まず無理でしょうね」
 儀式用の小物をまとめた[にしき]の布包みを抱えながら、モーヴが事も無げに言う。
「ダメじゃないか!」
 サイファは、慌てて立ち上がった。こんな、のんびりしている場合ではない。
「そう焦ることはありません。今回は勘例に捉われず、臨機応変に対処します」
「……どういうこと?」
「今回のユウザ様の立太子礼は、異例中の異例。儀式の順序も内容も、既に目茶苦茶なのですよ」
 だから、どうしてもやらなければならない、最低限の儀式だけ済ませれば良いのだと、モーヴは言う。
「伝統行事なのに、そんな好い加減なことでいいのかなぁ?」
「伝統など、所詮、人間が作り上げたものです。皇帝陛下も、ユウザ様も、より良いように改変していけばいいと、お考えなのでしょう」
「ふーん……そんなもんかな」
 モーヴと二人、そんな遣り取りをしていたところへ、召使を呼ぶ、乾いた鈴が鳴った。ユウザ様のお召しである。
「待たせてすまなかったな」
 モーヴの後からユウザの居室に入ると、彼は既に典礼用の雅やかな装束に着替えていた。だがそれも、昨夜の衣装より、ずっと身軽な略装である。
 サイファは、室内に視線を巡らせた。しかし、そこにはもう、ナザルの姿は見当たらなかった。
 あの後、ユウザから何を頼まれたのか? 今頃、何処へ向かっているのか?
 ナザルの行方に思いを馳せていたところへ、すいとユウザの顔が目前に飛びこんできて、サイファはギクリと身を強張らせた。
「お前の格好……」
 彼女の姿をじろりと見て、ユウザが軽く眉を顰める。何だか薄汚れているようだが? と。
「ああ……さっきまで、あんたの部屋に叩きをかけてたから――」
 言いながら、サイファは自分の服を見下ろした。濃紺の衣装だったから、よけい埃が目立つのかもしれない。
 ユウザ付きの女官≠ニいう立場は確固たるものとなったが、それ以前に、サイファは皇帝の奴隷≠フままである。他の従者たちのような揃いのお仕着せは支給されないので、ハシリスから与えられた衣装の中でも、比較的動きやすく、地味な平服を選んで着ていた。
「では、五分やる。顔を洗って、外出着に着替えてこい」
 すっかり留守番させられる覚悟でいたサイファは、ユウザの言葉に目を丸くした。
「一緒に行っていいの?」
「ああ。連れて行きたくないのは、山々だがな」
 止むに止まれぬ事情がある、と言って、彼は疲れたように眉間を揉んだ。
「わかった、急いで着替えてくる!」
 勢いよく回れ右すると、サイファは自室に向かって一目散に走った。
 何だかよく判らないが、今日はついている。
 ユウザとサイファ、そしてモーヴを乗せた箱馬車が最初に向かったのは、都の中心部から東に少し外れたところにある、ツェラケスタ神殿だった。馬車に揺られること、およそ三十分。
 暁と狩猟の女神、ツェラケディアを祀るその神殿は、壁面に紫水晶の破片が嵌めこまれた美麗な造りで、全体的に薄紫色に輝いて見える。建国神話にも登場するツェラケディアは、最も大衆的な女神で、人気も高い。
 三人は車を降りると、出迎えに立った神官への挨拶もそこそこに、早速、本殿へと案内させた。
 その最奥に安置されている御神体は、白い大理石で造られた、等身大のツェラケディア像だった。普段は、しっかり下ろされたままの帳を、神官たちがするすると引き上げる。
「わぁ……」
 現れた神像のあまりの存在感に、サイファは目を奪われた。まるで生身の人間のような、まろやかな曲線が美しい官能的な女神像は、全身から匂い立つような光沢を放っていた。
 紫水晶が象嵌された、魅惑的な眼居[まなこい]。今にも語り出しそうに、薄く開いた唇。弓を携えた左腕は体の線に沿って下ろされ、正義の矢を握り締めた右手は天高く掲げられている。
「始めよう」
 薄暗い内陣に響いたユウザの声で、サイファはようやく現実に引き戻された。儀式の邪魔にならないよう、壁際に控える。
 ユウザが立像の正面に跪くと、モーヴは、その傍らに持参した香炉を置いた。焚かれているのは、[かぐわ]しい素馨[そけい]の精油である。
 ユウザは両手を組み合わせ、女神を振り仰いだ。たったそれだけの仕種で、たちまち辺りに厳かな空気が生まれる。
 再び顔を伏せ、瞳を閉じると、彼の唇から神聖語による祝詞が紡ぎ出された。旅の途中で聴いたのとは、また違う旋律。
 高く、低く、独特の抑揚で流れるその響きが心地好いのは、祈りの神聖さゆえか、それとも、彼自身の涼やかな美声によるものなのか。
 やがて祈りを終えると、ユウザは裾を払って立ち上がった。それから、ゆったりとした動作で神像に顔を寄せ、女神の唇に[おの]が唇を重ね合わせる。
 その瞬間、全く馬鹿げた話であるが、その石像に激しい嫉妬を覚えた。先達ての彼の熱い唇を、無意識に思い出す。
(全く、石の像を相手にこのざまじゃ、先が思いやられるよ……)
 サイファは微かに唇の端を歪めた。ハシリスの言葉が、早くも実感を伴って胸を掻き乱す。
 そう遠くない未来、ユウザが相応の姫を娶り、子をなし、睦まじく過ごしている姿≠ネんて、やっぱり見たくないし、想像もしたくない。
 サイファは吐息と気づかれぬよう、静かに息を吐き出した。
 今日だけで、少なくとも後五回、これと同じ思いをするかと想うと、気が滅入った。
 自分は、何て弱い人間なんだろう。
 鼻腔をくすぐる花の[]が、頭の芯まで[とろ]かすように甘い。
- 2010.02.22 -
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