Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 56 話  [ゆめ][うつつ][まぼろし]
 神殿巡りは順調に、そして、極めて事務的にこなされていった。
 一行は、ツェラケスタ神殿に続き、癒しと水を司る男神、リュフォイを祀るリュスフォール神殿、火と生命の男神、バスティラヌスを祭神とするバスティルム神殿、農耕と牧畜の女神、タルスを掲げるタルシニア神殿と、次々に参拝を終え、次の目的地――旅人を守護する風の女神、フェスターシャを崇めるフェスタリク神殿へと馬車を走らせていた。
 いよいよ、ハシリス一押しの、曰くの神殿の番である。
 ユウザは斜向かいに座るサイファに、ちらりと視線を投げた。
 最初のツェラケスタでの参拝直後から、なぜか目に見えて元気をなくした彼女は、馬車の内で待っていても構わないが、というユウザの提案を固く辞し、従者としての務めを果たそうと懸命だった。
(神殿内の澱んだ空気にでも[]てられたか?)
 神聖な場所とはいっても、日頃、人の出入りの少ない内陣は、どの神殿にも独特の香気が漂っていた。幼い頃から神殿に通い慣れているユウザにとっては馴染みの匂いだが、一般人には鼻に付くかもしれない。
 何にせよ、残るは二ヶ所。サイファには気の毒だが、もう少し我慢してもらうより外ない。
 ユウザは、車窓を流れる景色に目を戻した。間もなく十八時を回ろうとしていたが、まだ、だいぶ日が高い。
 もうすぐ、夏が来る。細く開けた窓から忍び入る風に、淡く花の[かおり]が混じっている。
 ユウザは、ふと、儀式で嗅いだ[こう]の匂いを、次いで、薫煙で霞む神像の数々を思い出した。
(どの像も、同じ彫師の作だというが――)
 あのツェラケディアの像は、一際、見事であった。特別、皇家との[ゆかり]が深い女神だと思うからか、今までに巡ってきたどの神々よりも、強く心に残っている。
 御神体の立像そのものを目にするのは、ユウザも今日が初めてだった。内陣に下ろされた帳の内にまで入ることを許されるのは、皇帝と皇太子の他、神官長と、それぞれの神殿を管理する位の高い神官だけだからだ。
 各神殿に祀られている神像は、建国後、間もなく造られたという。今から数千年も昔に、あれだけの傑作を生み出したのだから、当時の技術力と芸術性の高さには、驚かされるばかりである。
(残る二体は、どうか……)
 馬車が、フェスタリク神殿の参道へと折れるのを横目に見ながら、ユウザは未だ見ぬ二神へ思いを馳せた。
「ようこそ、殿下。お待ち申し上げておりました」
 正殿の入り口で待ち構えていた、フェスタリク神殿の最高神官は、石段を上がってきた一行に丁寧に頭を下げた。両脇に控えた年若い――されど、位は十分に高い神官たちが、それに倣う。
「出迎え、大儀である」
 年老いて酷く腰の曲がった最高神官を、ユウザは心から[ねぎら]った。日も暮れ始めた刻限から儀式に付き合わせねばならないのが、何とも気が引ける。
「これは、もったいないお言葉。さあ、どうぞ、日の光のある内――……」
 突然、案内に立った神官の言葉が途絶え、ユウザは眉を寄せた。いかがした? と、老人の目を覗きこむと、深い皺の刻まれた顔に驚愕の色が張りついていた。
 しかし、それは老人ばかりではなかった。背後に佇む若い二人の顔にも、隠し切れない動揺が見てとれる。
 その視線の先にあるのは――サイファ・テイラント。
「この娘が、何か?」
 ユウザが問うと、老神官はきっぱりと首を横に振った。
「いえ、何でもございません。失礼をいたしました」
 心なしか表情を固くした神官が、足早に前を行く。さ、どうぞ。こちらへ。
 何となく腑に落ちないものを感じながらも、ユウザは後に従った。
 西日の照り返す廊下を進み、内陣へ入る。若葉色の帳の奥に、薄っすらと人形[ひとがた]が透けて見えた。
「しばし、お待ちを」
 一礼して、老神官は若い二人に目で合図した。それを受けて、二人が帳に手をかける。ゆっくりと持ち上げられていく布の陰から、眩いほどの白が浮かび――。
(これはっ!?)
 立ち現れた姿を見て、ユウザは言葉を失った。
 しなやかに伸びた手足と、腰まで流れる豊かな髪。風に膨らむ肩掛を背に靡かせ、わずかに天を仰ぐその顔は、風狼石の瞳を除いて、サイファに瓜二つ。
 いや、よくよく見れば、違うところの方が多い。だが、しかし、一見した時の鮮烈な印象を払拭するのは、極めて困難である。それほど、二人――サイファと女神像の雰囲気は似通っていた。
(何と悪趣味な……)
 ユウザは、心中でハシリスの所業を呪った。
 彼女の言う面白いもの≠フ正体と、これまでのサイファに対する度を過ぎた寵愛の理由が、かちりと符合する。
 ハシリスは、一目見た時から気づいていたのだ。
 白い鷲を携えて現れた猟師の娘が、フェスタリク神殿に祀られた女神像と、とても良く似ていることに。そして、その出来すぎた偶然が、いつしか必然へと摩り替えられて、世に知れ渡る日が来るであろうことも――。
(やはり、連れてこなければ良かった)
 一行を出迎えた時の神官たちの驚きの表情を思い起こせば、彼らがサイファを見て何を感じたかは明らかだった。今さら、ごまかせるものではない。
(この事実を、何としてでも伏せねばならぬ)
 ユウザは、目まぐるしく思考を働かせた。
 そうでなくとも、サイファが召抱えられた当初、白鷲を連れた美貌の狩人は、人々にツェラケディアの姿を連想させた。それが今度は、風の女神フェスターシャの神像が動き出したかのよう、などと噂が立てば、否が応にも、彼女への幻想が高まってしまう。
 美しき銀の乙女は、女神の化身に違いない――と。
 それだけは、何としても避けたかった。これ以上、サイファを世の中の騒乱に巻き込みたくない。
 おまけに今は、自分の立太子でばたばたしている。こんな時に、彼女の身にまで何か起きたら、庇いきれないかもしれない。
 そこまで考えて、ユウザははたと首をひねった。
(なぜ、今≠ェ選ばれた?)
 皇太子となったからには、各神殿で毎週のように執り行われる神事への出席が責務となる。今日でなくとも、サイファを連れてフェスタリクへ参詣する機会など、これから幾らでも作れたはずだ。
 それなのに、なぜハシリスは立太子の儀式という重要な日に、わざわざ面白いもの≠ニ称して、サイファを同伴させたのか? なぜ、この時機に、フェスタリク神殿の者たちに彼女の存在を明かさねばならなかったのか?
 一個人≠ニしてのハシリスが、サイファを可愛がっているのは間違いない。だが同時に、政治家≠ニしてのハシリスが、この偶然を何らかの形で利用しようと考えていたのも事実だろう。
 不確かなのは、その使い所を今≠ニ思い定めた理由だ。老練な女帝は、神の威光を被せたサイファに、一体、何をさせるつもりなのか……?
 わからない。今度こそ、ハシリスの真意をはかりかねた。
(とにかく、今は儀式を終わらせねば)
 ユウザは、焦る己を戒めた。サイファのことは、とりあえずは後回し。
「モーヴ、香炉を」
 同じく驚きで固まっていたモーヴに、短く命ずる。
「あ、はい、只今」
 支度が整うのを待つ間、ユウザはそっとサイファの様子を窺った。
 自分そっくりの神像を前に、さぞかし驚いているかと思えば、意外にも彼女は屈託のない微笑を女神に向けていた。まるで、旧知の者と再会したかのような、懐かしげな目をして。
(何を、考えている?)
 喉元までこみ上げた問いを静かに呑みこみ、ユウザは神像と向き合った。
(……やはり、似ている)
 胸に迫る感慨を押し拭い、固い床に膝を着いた。目を閉じて、フェスターシャを讃える風の祝詞を無心に唱える。
【――我と、我が民の上に、限りなき祝福の風が吹かんことを……】
 最後の言の葉を送り出すと同時に、ユウザは目を開けた。ゆっくりと立ち上がり、これまでしてきたのと同じように、神像に唇を寄せる。
(誠、悪趣味だ……)
 女神の唇に触れる間際、ユウザは心中で嘲笑った。心から口づけを交わしたいと願う相手[]の見守る前で、あたかも、これで我慢しろとばかりに、良く似た石人形と接吻[せっぷん]している。その硬く冷たい唇に、わずかばかりの慈悲を求めるは、果たして筋違いか。
 目近に見下ろす若草色の瞳に微かな笑みを投げかけ、ユウザは女神像から体を離した。その時、ふと、横顔に感じた強い眼差しは、誰のものであろうか。
「――さあ、次で最後だ」
 振り向いた時には、既に消え失せた視線を気にかける間もなく、裳裾を翻す。
 一連の儀式を壁際で静観していた老神官は、深々と頭を下げた。その表情は、すっかり落ち着きを取り戻している。
 ユウザは、彼の横を過ぎ去り様、神聖語で低く囁いた。
【この神殿の女神像が、日毎夜毎に歩き回っているなどと言うたところで、誰が信じるであろうな?】
 最高神官にしか伝わらない、謎掛けを一つ。
【さて、逢魔が時の見せた夢幻[ゆめまぼろし]と思うて、取り合わぬが賢明かと】
 心得顔で返された答えに一先ず満足し、フェスタリク神殿を後にする。
 楔は刺した。それがいつまで持つかは、神のみぞ知る。
 老神官の言葉を信じぬ訳ではないが、フェスターシャ像の噂は、遅かれ早かれ必ず広まるだろう。それまでに、きっと策を講ずる。
 例え、それが祖母の意に反する結果を招こうとも、これだけは譲れない。
 この先、どんなことがあっても、サイファには、指一本、触れさせない。
「今日は、疲れたであろう?」
 典礼用の裾の長い上着を無造作に脱ぎ落としながら、ユウザは、戸口に控えたままのサイファに、労わりの声をかけた。
「ううん!」
 そんなことない、と慌てて首を振る[から]元気を、嘘をつけ、と一蹴する。
 ユウザ自身の守護神でもある冥王、ユウザリウスを祭神とするユウザリオン神殿への参拝をつつがなく終え、居城に戻ったのが、つい今し方。皇帝主催の晩餐の席にも間に合わぬ、遅い時刻であった。
「すまぬな、祖母の[]れ事に付き合わせて」
 平服の上着に袖を通しつつ、つい恨み言がこぼれた。
「じゃあ、陛下が、あたしの同行を?」
「ああ。どうしても、お前にフェスターシャの像を見せたかったらしい」
 ユウザは皮肉に頬をゆがめた。
「あれを見て、お前も少しくらいは驚いたであろう?」
 神像と対面していた時の彼女の様子を思い返しながら、小首をかしげる。
「少しなんてもんじゃないよ!」
 ユウザの言葉に、存外、サイファは興奮気味に目を輝かせた。
「まさか、この世に、あんな母さん≠サっくりな像があるなんて、思ってもみなかった!」
 また会いに行けたらいいなぁ、と神殿内で見せたのと同じ、慕わしげな表情になる。
「なるほど。見る者が違えば、感じるものも大きく異なるわけだ」
 想像とはかけ離れた彼女の心境に納得しながらも、ユウザは自分を始めとする大多数の者が抱くであろう見解を述べた。
「私やモーヴの目に、あれは間違いなくお前≠フ姿に映る」
「え? そう?」
 自分では良くわからないな、と首をひねるサイファに対して、危うい台詞が口を衝いて出た。
「少なくとも、私はお前に口づけているような心地がした」
 思わず漏れた本音に、つれない唇までそっくりだったぞ、と不敵な笑みを上乗せし、[]れ言へとすり変える。
「……寝言は、寝てから言えよ」
 頬を上気させたサイファは、恨めしげな目をして、こちらを睨みつけた。少しは、かわし方を覚えたようである。
「悪いが、腹がへっては眠れぬ[たち]でな」
 くすりと笑んで、ユウザは呼び鈴を鳴らした。晩餐会で食い逸れた馳走が少しは残っていると良いが、と肩をすくめてみせる。
 アグディルの意識が回復したことで、ハシリスは今夜、久しぶりに重臣を集めた晩餐会を開いた。開会の時刻までに帰城が間に合えば出席するつもりでいたが、この時間では既に酒席へと変わっているだろう。素面でも面倒だというのに、酔った狸に絡まれては、朝まで寝かせてもらえまい。
 実を言うと、昨夜から一睡もしていなかった。さすがに、二晩続けての徹夜は避けたいところ。
「お呼びでしょうか?」
 程なく現れたモーヴに、軽い食事と湯浴みの支度を言いつけて、ユウザは長椅子に腰かけた。
「お前も座れ」
 いつまでもそんな所で突っ立っていられたら目障りだ、と言って、サイファを手招く。
「いいよ、あたしは」
「自分から来ぬなら、私が立って行って、引きずってでも掛けさせるだけだが?」
 ユウザは険しい眼差しを向けた。あくまで従者の立場を貫こうとする彼女の心意気が、好ましくも、歯がゆい。
 今日のフェスターシャ像の一件で、これからのサイファに対する心構えを、すっかり改めねばならなくなった。
 自分の傍にいれば危険が付き纏うという懸念は変わらないが、目の届かないところに置いておくのも、また危ない。結局、何処にいても安心できないのであれば、せめて己の力の及ぶ範囲に[とど]めておく方が得策だと思った。
「さあ――」
 未だに戸惑っているサイファに、手を差し伸べる。
「……わかったよ」
 観念したように、彼女は向かいの一人掛けにちょこなんと腰を下ろした。[しもべ]が主人の前で寛ぐことは罪だと言わんばかりに、体を固くして。
 まったく、妙なところで律儀な女である。
 口の[]に笑みが浮くのを覚えながら、ユウザは目を閉じた。サイファには、ああ言ったが、ほんの一瞬でも良いから、休みたかった。
 考えなければならないことが山とあるが、今は、睡魔の急襲に身を晒す。
 どうせ、自分には浅い眠りしか訪れない。微睡みの中、半ば醒めている意識を働かせる。
 自分が熟睡できなくなったのは、一体、いつからだったか? 昔は、確かに安らかに眠っていた覚えがある。
 そう、あれは確か、五年前――小雪のちらつく、冬の晩。最後の記憶を探り当てる。
 しかし、なぜ?
 理由を思い出そうにも、記憶の中枢に靄がかかったように、何も浮かんでこない。不自然なほどくっきり途絶えた糸口は、[さなが]ら記憶喪失のよう。
「ユウザ?」
 食事の用意が出来たけど……と、遠慮がちに呼ばれた声で、ユウザは目を開けた。真っ先に映ったのは、濡れたように輝く、青い双眸。
 これに良く似た瞳を知っている――。
 身を起こしながら、漠然と思った。
 ただ、それを見たのが、夢であったか、現であったか、それとも、自分の心が見せる幻であるのか、定かでない。
- 2010.03.26 -
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