Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 57 話  秘密[ひみつ]
 翌、早朝。
 いつものように、ハシリスのご機嫌伺いに向かうため、独り、身支度をしていたサイファは、思いも寄らぬ人物の来訪に目を[みは]った。
「あんたは……」
「朝も早くに、申し訳ない」
 金糸の百合を負った背に、煌く朝陽を浴びた幽雅な長身――クロエ・カートラムは、人目を[はばか]るように囁いた。
「中へ、入っても?」
「え、ああ、もちろん」
 どうぞ、と脇に避けた彼女に小さく頷いてみせ、クロエは、今一度、廊下に人の目が無いのを確かめてから部屋に足を踏み入れた。
「こんな朝っぱらから、あたしに何の用だい?」
 机の上に取り散らかしていた櫛や鏡を急いで片付けながら、サイファは、自分とは[えん]の薄い、前皇太子の秘書官を見やった。
「セシリア様のご依頼で、これを届けに――」
 事務的な口調で応えながら、クロエは手にしていた布包みを、片付けられたばかりの机上に広げた。現れたのは、上等の絹で仕立てられた薄紫の長衣と、それに良く合いそうな紫水晶の髪飾り。どちらも、一目でそれと判る高級品だ。
「これを、あたしに……?」
 戸惑うサイファに、ふと、硬質だった胡桃色の瞳が和らぐ。
「皇太子殿下の側仕えともなれば、国賓と[まみ]える機会も多いかと」
 その身に相応しい拵えを、との前皇太子妃の心遣いだという。
「綺麗な色……」
 繊細な光沢を帯びた[ころも]に、思わず指が伸びた。藤の花でも織り込んだような淡く優しい地模様は、イグラットでは見慣れぬ柄。恐らくは、ミルゼア辺りの舶来品だろう。
 日ごろ、ハシリスから贈られる衣装の数々は、その殆どが宴席で着るために用意された、絢爛豪華な夜会服ばかりだった。それに比べて、セシリアが届けてくれたこの服は、皇太子付きの女官として恥ずかしくない、華やかさと実用性を兼ね備えた装いと言える。
 だが、この如何にも女らしい淑やかな服が自分に似合うだろうか? 男勝りには不釣合いだと、[みどり]の瞳に笑われはしないだろうか?
 そんな思いが、胸をかすめた時。
「良いことを教えてやろう」
 クロエの面白がるような声がした。その色はユウザ様のお好きな色だ、と、ささめく唇には、いつぞやと同じ、心騒がす甘い微笑。
「何で、そんなこと?」
 胸の内を見透かされたような気恥ずかしさに、サイファは思わず声を尖らせた。
「さあ?」
 睨まれたクロエは、わざとらしく首を傾げた。にわかに、つれない美貌にそぐわぬ茶目っ気が浮かぶ。
 その笑顔の思いがけない明るさに、サイファは身構えていた体からふいに力が抜けるのを感じた。彼に対して最初に抱いた、無口で取っ付き難い印象が薄れていく。
 サイファは小さく笑って、クロエに視線を投げた。
「なぁ、似合うと思う?」
 広げた衣装を体に当てて、戯れに尋ねる。しかし――。
「そうだな、居並ぶ姫君の列に加わっても、誰も不審に思わぬほどには」
 一転、真顔で返されたのは、危うい――冗句[じょうく]
 エリスの口から聞かされた夢物語が、頭を[]ぎる。
 ユウザ様のお妃候補=\―。
「……あんたは、何もかも知っているのか?」
 クロエの優美な顔を振り仰ぎ、サイファは言葉少なに尋ねた。この男は、セシリアと志を同じくする者――自分の味方なのだろうかと、[おの]が胸中に問う。
「さて、何のことやら。私はアグディル殿下の従者。妃殿下からの頼まれ事は、主人の使いのついで≠ノ過ぎない」
 穏やかに笑んで、彼は持参した平包[ひらづつみ]を丁寧に畳んで懐に収めた。
「では、これで」
「あ、待って!」
 長居は無用とばかりに、さっさと踵を返したクロエを、慌てて引き止める。
「妃殿下に、お礼を。それから、必ず御恩に報いるからと伝えて」
「承知」
 ゆったりと頷いたクロエが、今度こそ背を向けた。入ってきた時と同様、周囲を確かめてから部屋を出て行く。
 その姿が消えてからも、サイファはしばらく佇んでいた。
 今まで、色々な人と出会ってきたけれど、クロエのように心象がころころと変わる、捉えどころの無い人物は初めてだった。
 皇家の子息と言っても通りそうな、上品な面差しに浮かぶのは、物静かで優しげな表情だ。それなのに、瞳には物憂げな翳が透けている。
 しかし、だからといって、不快な冷たさや、油断ならないといった危惧は感じられない。それどころか、気紛れに表れる快活な笑顔に、どうしようもなく惹きつけられる。
 全く以って、人となりが掴めない。
(でも――)
 嫌いじゃない。
 サイファの直感は、彼に不思議な親近感を覚えていた。
 根拠など、何もない。ただ、知れば知るほど、好きになる。そんな予感がするだけだ。
 ユウザに対する想いとは、明らかに種類の異なる好意を胸に、サイファは、既に支度を終えていた煌びやかな衣装を脱ぎ捨てた。真新しい薄紫の[きぬ]に改めて袖を通し、結い上げた銀糸の髪に葡萄色の飾りを手早く留める。
「よし!」
 鏡に映る自分に頷きを返して、サイファは足にまといつく裾を、優雅に翻した。
 朝露に濡れる、咲き[]めの薔薇園を散策した帰り。
「そなたのお陰で、楽しい散歩ができましたよ、サイファ」
 にっこりと、ハシリスが笑った。
 朝の謁見の際、今日は天気が良いので庭を歩きましょう、と求められ、サイファは散歩に付き合った。これも、皇帝の奴隷としての務めの一つである。
「それは良うございました」
 微笑を返した彼女に、ハシリスが、そうそう、と思い出したように言う。
「ところで、その出で立ちは、ユウザの見立てですか?」
 自分が贈った覚えのない衣装に、目聡く気づいたようだ。
「いえ、あの……」
 サイファは何と返したものかと、言葉を詰まらせた。ここで、犬猿の仲であるセシリアの名を出すのは、ものすごく気が引ける。
「まぁ! 妾に内緒の相手からとは……」
 そなたも隅に置けませんね、と言って、女帝は、ほほ、と笑った。
「いえ、そんなことは……」
 大っぴらに、違う、とも言いかねて、サイファは苦笑いになった。このまま勘違いしてもらって、助かるような、困ったような。
「ユウザには、秘密にしておいてあげましょうね」
 そう、笑顔で請合うハシリスに、サイファは、否とも応とも言えず、黙って微苦笑を浮かべた。
「ああ、秘密で思い出したわ。サイファ、実は、そなたに内密の頼みがあるのです」
「何でございましょう?」
「そなたの美声を見込んで、一つ、歌姫になってほしいのです」
「はあっ!?」
 皇帝の御前であることも忘れて、サイファは素っ頓狂な声を上げた。
「近々、アーレオス同盟の参加国会議を開くのですが、良い機会だから、そこでユウザが皇太子に立ったことを公にしようと考えています。そなたも知っていると思いますが、あの子の立太子礼は、ささやかに済ませてしまいましたからね。新皇太子のお披露目をかねて、国賓を持て成す酒宴は盛大に催すつもりなのです」
「では、その席に花を添えろ……と?」
 サイファは渋面を作った。
「もちろん、それもありますが、ユウザを驚かせようと思って」
 頷いて、ハシリスは朗らかに笑う。このところ、父親の怪我や何やで、あの子には辛い出来事ばかりだったでしょう? と。
「……畏れながら、身に余る大役をお引き受けしては、とんだご迷惑をおかけするかと」
 サイファは、慎重に断りの言葉を選んだ。花どころか、宴に泥を塗りかねないと思った。
 自分が音痴だとは思わないが、人前で披露するほどの技量でないことは、十分わかっている。自分一人が恥をかくだけなら一向に構わないが、諸外国のお歴々の前で、大陸一の強国、イグラットが嘲笑を浴びるのは堪えられない。
「そう固く考えることはないのですよ。宴の余興として、妾を楽しませてくれるだけで良いのです」
「でも……」
「サイファ、あまり駄々をこねるのは感心しませんね」
 あくまでも柔らかいハシリスの声音[こわね]の中に、言いようの無い凄みを感じ、サイファは息を呑んだ。これまで、こんな物言いをする彼女を見たことがない。
「申し訳ございません」
 背筋にうそ寒さを覚えながら、サイファはすぐさま謝罪した。
「及ばずながら、精一杯、お務めいたします」
 そう返す以外、どんな答えがあっただろう?
「何も、案ずることはありません。実を言うと、もう、そなたにつける歌の師匠を頼んであるのです」
 早速、今日の午後から稽古を始めましょうね、と目を細めるハシリスに、サイファは頷くしかなかった。
 ユウザの朝食に付き合うため、バタバタと廊下を駆けていくと、ちょうど、彼の居室から出てくるモーヴと鉢合わせになった。
「遅くなって、ごめんなさい! 陛下のご機嫌伺いが長引いちゃって!」
 言い訳しながら、急ぎ、扉の取っ手に手を伸ばしたところを、モーヴに遮られる。
「今朝は、良いのです」
「何で?」
「朝一番に、アグディル殿下の秘書官のクロエ殿がお見えになって、ユウザ様と二人きりでお話を。ちょうど今、朝食をお持ちしたばかりなので、お食事をなさりながら、お話の続きをされているはずです」
「なるほど、こっちが本命≠チて訳か……」
 サイファは、ぼそりと呟いた。どうやら、ついで≠フ用事を先に済ませたらしい。
「ねぇ、あの人は、あたしが見張ってなくても大丈夫なの?」
 自分の勘に自信はあるものの、念のため聞いてみる。
「クロエ殿ですか? 彼なら、心配いりません」
 そんな彼女の問いに、老執事は太鼓判を捺してくれた。
「あの方は、父君、アグディル殿下の懐刀。いざという時には、お力を貸して下さいましょう」
「そう……」
 それなら安心だ、と笑ってから、サイファは、ついさっき持ち上がったばかりの厄介事をモーヴに打ち明けた。
「あのね、モーヴ爺さん。ユウザには、絶対に秘密なんだけど……」
 ハシリスから下された命令を伝えると、案の定、モーヴの顔にも難色が浮かんだ。
「それは、困ったことになりましたねぇ」
 皺の浮いた指を顎に当て、思案顔になる。
 歌の稽古なんかに時間をとられていたら、使命が疎かになるのは否めない。
「陛下の命に背く訳にはいかないから、とりあえず、その歌の師匠とやらに会ってくるよ」
 溜め息まじりに言いつつも、サイファは覚悟を決めた。
「そのためにも、まずは腹ごしらえしなくちゃ! ね?」
 老翁の腕を取り、侍従の控え部屋へと歩き出す。
「ああ、これ! ちょっと、お待ちなさい!」
 いきなり腕を引っぱられて、モーヴが慌てた早足になった。引き摺られるように歩きながら、腹が減っては軍ができぬとは、まるでユウザ様のようだ、と可笑しげに笑う。
「そんなことないよ!」
 あんな大食漢と一緒にしないでくれ、と憎まれ口を叩いてはみたが、自分でも思い当たる節があって、サイファは、くすりと笑みをこぼした。
「長く傍にいると、似てきちゃうもんなのかな?」
「そういうこともあるでしょうが、元が似ているから、長く一緒にいられるのでしょう」
 そう言って、モーヴは目尻の皺を一層深くした。
 軽やかな呼び鈴に逸早く応じて、モーヴは、すっくと立ち上がった。この反射神経の良さは、とても六十代も半ばを過ぎた老体とは思えない。
 老人の後を追う形で、サイファも続く。
「お呼びでございますか?」
 モーヴの背後からユウザの居室を覗きこむと、室内に、[]だクロエの姿があった。
「ああ、お前達に話がある」
 入ってくれ、と手招かれ、サイファとモーヴは、一瞬、目を見交わした。目顔で頷く侍従長に続いて入り、静かに扉を閉ざす。
「ここにいるクロエは、二人とも見知っているな?」
 ユウザの前置きに、サイファとモーヴは同時に頷いた。
「彼は、長きに渡って、父の秘書官を務めてくれていたが、此度[こたび]の父の隠居に伴って、その職を辞することになった」
「えっ!?」
「何ですと!?」
 サイファとモーヴの驚愕の声が、これまた同時。
「驚くのは早い」
 明らかに動揺している二人を見て、ユウザが苦笑を浮かべた。
「そこでだ、今後は私の[もと]で辣腕を揮ってもらうことにした」
 言いながら、頼もしげにクロエを振り返る。
「侍従長のモーヴ様には、何かとお世話をおかけするかと存じますが、何とぞ宜しくお願い申し上げます」
 ユウザの視線を受けた年若の秘書官は、素早く席を立ち、雅やかに腰を折った。[おもて]を上げ[ざま]、にこりと笑む。
「こちらこそ、クロエ殿のように若くて力のある御方が、ユウザ様のお傍でお働き下さると思うと、何とも心強い」
 モーヴが心底嬉しそうに眉尻を下げた。これで、いつでも引退できる、と冗談とも本気ともつかぬ調子で何度も頷く。
「こら、モーヴ。そう簡単に楽隠居されては困るぞ」
 そなたには、まだまだ老骨に鞭打って働いてもらうつもりなのだから、と窘めるユウザの口調にも、しかし、屈託はない。
(良かった……)
 ここ数日、張り詰めていたユウザの瞳が[]いでいるのを見て、サイファは胸を撫で下ろした。彼にとっても、クロエの存在は、相当、大きいと見える。
 ユウザの力となってくれる者が一人でも増えるのは、本当に心丈夫だ。有難いことだと思う。
「よろしく」
 感謝の意味も込めて、サイファはクロエに向かって右手を差し出した。
「こちらこそ」
 真面目な顔で応じた彼の、握り返された力の確かさに、胸がつまる。この手が、ユウザを支えてくれるのだ。
「さてと、顔合わせも済んだことだし、一息いれるか」
 長椅子に掛けたまま、ユウザは大きく伸びをした。そして、ゆるりとこちらに首を巡らす。
「サイファ、茶を淹れてくれるか?」
「わかった!」
 初めて、まともに依頼された仕事を二つ返事で引き受けて、サイファは、いそいそと茶器の入った戸棚を開いた。
 仲間が増えるのは喜ばしい限りだが、助けたいと願う相手が、自分を&K要としてくれる事実の方が、その何倍も嬉しいということを、しみじみと噛みしめながら。
 昼下がり。
 ハシリスの使いに呼ばれ、例の歌の稽古を受けるべく、皇帝の居室へ向かったサイファは、黒檀の柱時計を睨みながら、何度目かの溜め息をこぼした。
(いつまで放置しておくつもりなんだ?)
 しばし待つように、と言われて待機すること、早一時間。ハシリスも、歌の師匠も現れない。
 大体、政務で忙しいハシリスが、奴隷の歌の練習なんぞに付き合う暇はないと思うのだが、本人が、初回くらいは妾が付いていてあげましょう、と言って聞かぬのだから、どうしようもない。
 何もせず、ただイライラと待っている時間は、とても長く感じる。こんなことをしている間にも、ユウザの元へ誰かが訪ねてきているかもしれないのに……。
 サイファは、小さく溜め息を[]いた。
 そこへ、入り口の戸が開く音がする。
 はっとして顔を上げると、サイファを呼びにきたのと同じハシリス付の女官に案内されて、若い娘が入ってくるところだった。その手に、綾錦の袋に入った楽器らしきものを携えている。
 まさか、自分とそう歳が違わぬように見える、この少女が師匠なのかと、サイファは、まじまじと相手を見つめた。
 美しい娘だった。
 陶器の人形のように白い面貌、華奢な鼻筋に、紅をはいた[つや]やかな唇。淡黄色の髪を背中で緩く束ね、その毛先に緑色の宝玉を散らしている。
 やがて、伏せていた目を、ゆっくりと上げ――萌え出づる若葉色の双眸が、ぴたりとこちらに据えられた。
 フェスターシャ。
 頭の中に、自然とその名が浮かんだ。風狼石に良く似た瞳を持つ、風の女神。
「そなたが、サイファ・テイラントね?」
 娘の、鈴を転がすような、澄んだ声が響いた。その優しい声で歌ったら、さぞかし綺麗な旋律が生まれるだろう、などと無意識に思ったサイファは、とっさに声が出てこず、無言で頷いた。
 すると、娘は胡蝶蘭のように甘やかな笑みを浮かべ、[みずか]ら名乗った。
「陛下のお召しに従って、本日より、そなたに音曲の手解きをすることになりました。[わたくし]は、エカリア家の第七皇女――」
 エレミナ・エカリアです、と。
- 2010.04.11 -
NOVEL || HOME | BBS | MAIL