Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 59 話  [こころ]在処[ありか][]行方[ゆくえ]
「やけに機嫌が良いな」
 拝謁の場で何か良いことでもあったか? と尋ねられ、サイファは一瞬、背中に冷や汗が伝うのを感じた。
「別に、何もないけど?」
 できる限りの平静を装い、何で? と、逆に問いかける。
「鼻歌なぞ歌っているから、そう思ったまでだ」
 仔細はない、と机で書き物をしながらのユウザの答えに、ほっと胸を撫で下ろしつつ、サイファは心中で苦笑いした。
 習ったばかりの旋律が頭の中で何度も繰り返されているのが、無意識に鼻歌となって出てしまったらしい。ユウザにはくれぐれも秘密にするように、とのハシリスの厳命が、早くも台なしになるところだった。
 例の歌の稽古を終え、ユウザの居室へ戻ってきたのが、つい十分ほど前のこと。エレミナ姫の指南による稽古は、思いがけず楽しいものとなった。
『また、明日ね』
 別れ際、ふわりと笑んだ彼女の美貌を、サイファは好ましく思い返す。
 エレミナ・エカリアは自分と同じ、十七歳だという。
 五大公家の一つに数えられている、エカリア家。その本家筋の姫君という、極めて高貴な身分であるにもかかわらず、彼女はとても優しく親切で、人を見る目が公正だった。
 もっとも、今日はハシリスが同席したからかもしれないが、平民出のサイファを蔑むことなく、かといって、不必要に甘やかすこともなく、良いものは良い、悪いものは悪いと、きびきび指導された。
『あなたの声は美しいけれど、艶が足りないわ』
 試しに一曲、と古い童謡を歌わされた後で、そう手厳しく評された。
『でも、磨き甲斐のある原石のよう』
 必ず名のある宝玉に仕上げてご覧にいれますわ、と自信ありげにハシリスに請け合ってみせていたのが、頼もしいような、空恐ろしいような、だ。
 自分の両肩に、どんどん重石[おもし]が積み上げられていくような心地である。
 とにもかくにも、これから毎日、参加国会議が開かれるまでの約二週間、午後の二時間あまりを歌の練習に割くこととなった訳だが、始める前に感じた憂鬱さからは、すっかり解放されていた。それどころか、楽しみとさえ思える。
 これまで、自分の身近なところに、全く同い年の同性が一人もいなかったサイファは、身の程知らずは承知の上で、エレミナと友達になれたら、と淡い希望を抱いた。
 女の子同士、他愛ないお喋りに興じたり、一緒に針仕事などしたら、どんなに楽しいだろう? もし、そうなれたら、帝都での暮らしにも、少しは張り合いが生まれるというもの――。
「心ここに在らずだな」
 思わず都合の良い想像に[ふけ]っていたところへ、ユウザの尖った揶揄がよこされた。どこに置き忘れてきた? と。
「え?」
 慌てて視線を向けると、いつの間に移動したのか、彼は長椅子に悠々と身体[からだ]をあずけ、こちらを見ていた。その顔に薄っすらと不興が覗く。
「まあ、良い。それより、面白い話がある」
 面白いと言う割にいつもの無表情に戻ったユウザが、椅子の上の脚を優雅に組み替えた。
「ルドに、嫁の来手があったぞ」
「は? 嫁?」
「我々の留守中、ソルヴァイユ神殿に雌の鷲が奉納されてな。ルドに似合いの、純白の鷲だ」
「ウソっ! 本当に?」
「先ほど、この目で確かめてきた」
 白い塗料でもかけられた贋物かと疑ったが、紛うことなき天然物だった、と肩をすくめる。
「そうかぁー。あんな珍しい色のが、他にもいたんだな……」
 何の根拠もなく、白い鷲は世界にルド一匹だけ、と思いこんでいたサイファは、つい溜め息をこぼした。彼に仲間がいて喜ばしく思う半面、少し残念な気もする。
眷属[けんぞく]に縁談が持ち上がって、淋しいか?」
 先ごろの、船上での一件を思い出したのだろう。自分を見つめるユウザの瞳に、いささか気遣うような色を感じて、サイファは大きく首を振った。
「ううん! ルドに家族ができるのは嬉しいよ」
 出来れば子供も白いといいな、と夢に描く。白い鷲の親子が三羽、暁の空を舞う様は、どれほど美しかろう。
「白くても黒くても構わぬから、子が生まれたら、一羽、貰い受けたいな」
 ルドの子ならば、ぜひ狩りの供にしたい、と気の早いユウザの台詞に、サイファはくすりと笑った。まるで、我が子の誕生を待ち望む父親のようだ。
「そういえば、ルドを狩ったのは、お前自身だったな?」
 ふと、思い出したようにユウザが尋ねてよこした。
「そうだよ。アンカシタンとの国境付近で」
「アンカシタン? ガデル峠の近くか?」
 心持ち[まなじり]を鋭くした彼に、サイファは、うん、と頷いてみせる。
「前に話さなかったっけ?」
「いいや、初耳だ」
「あれぇ? おかしいなー」
 誰か別の人だったかな? と、首をひねって考えこむところへ、来客が告げられた。バスティル神官長がお目通りを求めておいでです、と――。
「お通ししろ!」
 弾かれたように、ユウザが立ち上がった。
 程なく、ナザルに導かれて、バスティル・ノースが戸口に姿を現す。いつもの白地に金の縫取りという神官装束ではなく、紅下黒[べにしたぐろ]の落ち着いた長衣を纏い、背に流れる栗色の髪も、三つ編みにはせず、緩く一つに束ねただけの軽装だ。
「叔父上!」
 ユウザの顔に、たちまち華やいだ気色が浮かんだ。
「ああ、ユウザ!」
 兄弟のように歳の近い叔父と甥が、互いに駆け寄るようにして手を取り合い、屈託なく抱擁を交わす。
(バスティル神官長……か)
 二人の様子を壁際で見つめながら、サイファは、なぜか胸の内がさざめくのを感じた。ユウザが、こんなにも無防備に人に好意を表すところを、初めて目にした。
「陛下への謁見は、もう?」
 ユウザの問いに、バスティルが笑顔で首を振る。
「いいえ、まだです。まずは、恩人への御礼が先――」
 言いながら、その場に[ひざまず]き、本当にありがとう、と丁寧な謝辞を述べる。
「おやめ下さい、叔父上!」
 ユウザは、バスティルの体をすくい上げるようにして立ち上がらせた。当たり前のことをしただけで、そのように感激されては恐縮してしまいます、と、にこやかに笑む。
 それから、視線を感じたのか、彼がふいにこちらを見た。
「叔父上、ご紹介しておきましょう」
 昨今、私の側仕えとなった銀の娘です、と、いきなり水を向けられて、サイファは目をぱちくりさせた。
「おや、私の知る限りでは、そなたがこの娘に仕えていたと思ったが」
 たった数日で天地がひっくり返ったようだ、と美しい微苦笑の後で、バスティルの視線がこちらへ向けられる。
「こうして言葉を交わすのは、初めてになるかな?」
 ユウザの叔父のバスティル・ノースと申します、と物柔らかな笑顔で名乗られ、サイファはあたふたと拝跪[はいき]した。さすがに親子だけあって、ハシリスと面差しが似ているようだ。
「お初にお目にかかります」
 サイファ・テイラントでございます、と恭しく[こうべ]を垂れる。
「これはこれは、しおらしい。白い鷲をけしかけて人々を襲わせるという、悪名高き銀の魔女≠フ噂は、どうやら、そなたに袖にされた者たちの、心ない意趣返しのようだね」
 大事な甥を鷲につつかれては大変と心配していたが、取り越し苦労で安心したよ、と浮かべる悪戯な笑みが、これまたハシリスそっくり。
「あ、いや、突っつきはしなかったけど、引っ掻きはしました」
 ユウザの右手首に刻まれた深い爪痕を思い、ごめんなさい、と素直に謝ると、横で被害者当人が吹き出した。
「馬鹿なことを」
 くつくつと明るい笑い声を立てながら、ユウザが叔父をふり返る。なかなかに面白い娘でしょう? と。
「ああ。ぜひとも、私の側女に譲り受けたいくらいだよ」
 にっこり笑って、バスティルが頷く。そなたが実にうらやましい。
 しかし、いくら社交辞令とはいえ、その言葉の中に、言葉通りの意味が少しも含まれていないのを、サイファは肌で感じた。
 バスティルから向けられる笑顔は、真実、優しかったが、そこには異性に対する某かの気構えや、性的な関心が微塵もない。彼から伝わってくるものといえば、人類愛のような穏やかな慈愛だけ。
 自惚れでも何でもなく、こんな風に、女としてのサイファに全く興味を示さない男は、初めてだった。さすがは聖職者と言うべきか。
「よろしければ、どうぞ――と、申し上げたいところですが、これは見た目を裏切る無鉄砲ゆえ、お譲りしては、かえってご迷惑となりましょう」
 ちらりとこちらを見たユウザが、意地の悪い笑顔で付け足す。厄介払いをしても構わぬと仰せでしたら、話は別ですが、と。
「そういうことならば、泣く泣く諦めよう」
 ユウザの戯言にサイファが異議を唱える間もなく、バスティルが応じた。
「私よりも、よほど女人の扱いに長けた甥殿ですら手を焼くお転婆では、荷が重すぎるというもの」
 とても残念だけれどね、と笑んだ瞳が、おどけた目配せをよこす。
「僭越ながら、賢明なご判断かと存じます」
 サイファがすまして答えると、室内が和やかな笑いに包まれた。
「では、叔父上。そろそろ、陛下の元へ」
 一頻り笑った後。
 私も共に参ります、とバスティルを促しつつ、ユウザの目が部屋の内を探すように揺れた。
 その様子にピンと来て、サイファは衣桁から淡い紫の上着を外して、彼に差し出した。午前中、クロエと一緒に出て行った時に着ていた覚えがあった。
「すまない」
 一瞬、驚いた顔になったユウザが、わずかに口元をほころばせる。それだけで、こちらの胸がかき乱されるような巧笑になるのが、厄介。
「すぐに戻ってくる?」
 動揺を隠した何気ない素ぶりで、彼の肩に上着を着せ掛けながら問うと、多分、と曖昧な答えが返された。
「あまり遅くなるようなら、モーヴ宛に使いをよこす」
 だから、お前も彼の傍にいろ、と言い置き、ユウザはナザルを従えて廊下に出た。
「行ってらっしゃい!」
 その後ろ姿に声をかけると、ふり返りはしなかったが、軽く右手を上げて応えてくれた。
 昨日の神殿巡りを終えてからというもの、ユウザはあまり煩くサイファを追い払わなくなった。ナザルやモーヴと大事な密談に及ぶ時以外は、誰が訪ねてきても、居室に控えることを黙認してくれている。
(少しは、信頼されてきた証拠かな?)
 近づいてはいけないのだと思いつつも、縮まる距離が、どうしようもなく嬉しい。嬉しくて、苦しかった。
 自分の想いを、一方的に差し出すだけの恋。見返りを求められる立場ではないのだと、愚かな心に釘を刺し、大きく一つ、溜め息をついた。
「さてと、ご主人様が戻るまで、一休みしようかな?」
 自らを鼓舞するように独り言ち、サイファは主の言いつけ通り、老執事が待つ控え部屋へ向かった。
 その途中。
「久しぶりだな、銀の娘」
 気安く話しかけられて、サイファはジロリと声のした方を睨みつけた。
「そう怖い顔をするなよ」
 相変わらずつれないことだ、と少々恨みがましい口調で嘆くのが、細身の優男だ。色艶の良い卵型の顔は、とても三十歳には見えない童顔で、神官の証である焦げ茶の三つ編みがなければ、金持ちの放蕩息子でじゅうぶん通る軽薄な風采である。
 同じ神官でも先のバスティルとは大違いで、名ばかりの高等神官なのだと、いつだったか、この男自身が話していた。酒と女が生き甲斐と公言して憚らない、札付きの不良神官。
 男の名を、ヘンシェル・アマンという。
 恐らく、宮中で最もルドの嘴に可愛がられた人物で、サイファに銀の魔女≠ニいう汚名を着せた、最有力の容疑者である。
[なん]か用か?」
 斬りつけるような声音で尋ねると、ヘンシェルは、傍らにルドがいないせいか、大胆に近づいてきた。
「旅の間に、[なに]かあったみたいだな」
 肌の輝きが増したようだ、などと浮ついた世辞をよこしつつ、頬に触れようとする男の手を、サイファは容赦なく払いのける。
「そりゃ、そうさ。この一週間、あんたの[つら]を見ずにすんだんだからね」
 顔色だって良くなるだろうよ、と真正面から悪態をついてやった。
 それに対して、彼はしまりのない顔で笑う。
「その勝気がたまらないと、何度言ったら、わかってくれるのかな?」
 人の話を丸きり無視しての口説き文句だ。
「用がないなら、もう行くよ」
 サイファは露骨に軽蔑の目を向けると、ヘンシェルを残したまま、さっさと歩き出した。
「待てよ、せっかちだなぁ」
 大げさに肩をすくめて、男が正面に回りこんでくる。どうやら、本題があるらしい。
 案の定、ところで、と、やけに勿体ぶった口調で前置きし、ヘンシェルは探るように目を細めた。
「そなたがユウザ様付の女官になったという噂は、真か?」
 思いがけない問いに、サイファは眉をひそめた。
「本当だけど……」
「ああ、それはありがたい!」
 それが何か? と尋ねようとした彼女の言葉を思いきり遮って、ヘンシェルが喜色も露わにまくし立てる。
「そなたをユウザ様の奥侍女と見こんで、頼みがある。明日の深夜、密かに殿下を時計塔までお連れしてくれないか?」
「はあっ!?」
 サイファは眉をつり上げた。
「そんなふざけた頼み、誰が引き受けるか!」
 一昨日きやがれ! と、にべもなく断る。
 そうでなくとも、見えない敵だらけの皇居内。その中でも、最も人気[ひとけ]のない場所に皇太子を呼び出すなんて、命を狙っていると宣言しているようなものではないか。
「いや、このところの騒ぎを思えば、怪しい企みでは、と勘繰る気持ちは良くわかる。だが、そんなきな臭いものではないのだ――」
「きな臭くなくても、お断りだね!」
 聞く耳持たぬとばかりに、サイファはそっぽを向いた。こんな奴、誰が信用するものか。
 しかし――。
「人の命が、懸かっていてもか?」
 突如、難じるように突きつけられた言葉に、背けていた顔を戻さざるを得なくなる。人命うんぬんとは、穏やかでない。
 こちらを見返すヘンシェルの表情は、極めて真剣だった。今まで、見たこともないほどに。
 サイファは、黙って続きを待った。
「実は、大きな声では言えないのだが……」
 そこで、彼はらしくもない憂い顔で、重い溜め息をもらした。
「妹が、ずっと殿下に片恋していてね……」
 立太子もすんだ今、ユウザが正妃を迎えるのは時間の問題。初めから叶わぬ恋とわかっていたが、せめて長年の想いだけでも打ち明けたいと思い悩み、気鬱の病に取りつかれているという。
「頼む! このままでは、心ばかりか、体まで壊してしまいそうなのだ」
 後生だから、と縋るような目をされて、サイファは困り果てた。
「そう言われても……」
 娘の気持ちはわかるし、気の毒だとも思うけれど、夜中にユウザを連れ出すなんて、やはり承諾できない。
「どうしても、会って伝えないとダメなのか?」
 手紙くらいなら渡してやってもいいけど、と代わりの案を出してみるも、すぐさま却下された。
「手紙などでは、とても妹の心は伝わらない!」
 お前も恋をしたことがあるならわかるだろう? と、責める口調で迫られ、曖昧に頷く。実を言えば、初恋を自覚した時には既に失恋していたという御粗末な経験しかないので、いまいち良くわからない。
「ほんの短い時間で良いのだ。何なら、お前が一緒について来ても構わない」
 それでも駄目か? と、必死の形相で訴えてくるヘンシェルに、サイファは微かな同情を覚えた。
 いつも、自分に色目を使う嫌な男でしかなかった彼が、妹のためにこんなにも懸命になっている。奴隷である自分に、誇りも捨てて頭を下げてくる。
 ましてや当の妹姫は、こうしている今も、ユウザを想って、泣いているのかもしれない……。
 サイファは深い溜め息をついた。
「この話、本当に本当なんだろうな?」
「もちろん!」
「天地神明に誓って?」
「ああ」
 これでも聖職者だ、と胸を張るヘンシェルを、強く見据える。
「もし、これが嘘で、万が一にもユウザを傷つけたりしたら――」
 あたしは、必ずお前を殺す。
 心からの言葉を、過不足なく伝えた。それでもいいなら手を貸してやる、と。
 その瞬間、何か塊でも呑みこんだかのように、男の喉が大きく上下した。緊張した面持ちで、頷く。
「……誓って、殿下には手を出さない」
「なら、手伝ってやる」
「かたじけない!」
 ヘンシェルは、さもほっとしたように破顔すると、サイファの手を取り、両手でぎゅうと握りしめた。いつもなら速攻で叩き落としてやるところだが、この状況ではそうもいかない。
「ただし、あたしも行くからな」
 告白の邪魔はしないけど、と言いつつ、さり気なく手をほどく。
「もちろん、結構だ。だが、殿下にはそこに私の妹が待っていることは黙っていてほしい」
「どうして?」
「用向きを聞いた時点で、来ていただけなくなる可能性がある」
「そんなことないよ。あいつ、優しいもん」
「優しい!? 何を根拠に!」
 ヘンシェルは眉間に深々と皺を作り、得々と語り始めた。
「お前は皇宮に来て日が浅いから知らんのだろうが、殿下に言い寄って、冷たく突き放されたご婦人方が、一体、何人いると思う? 帝都防衛の責務があるゆえ女人にかまけている暇はない、などと硬派なおっしゃりようだが、本当のところは、氏だ、素性だと、気位ばかり高くて後が面倒な皇宮の女は、相手にしたくないだけなのだ。その証拠に、城下の見回りを終えた足で贔屓の妓楼にしけこみ、そのまま夜明かしすることも、しばしばだったらしい」
 皇家の男子ともあろう者が、下賤の色街に出入りするなど情けない。女を金で買う、そんな薄情な男のどこが良いのか。自分の方が、よほど女性に優しい紳士なのに。しょせん、男も顔か? 顔しかないのか! と、最後の方は、やっかみ半分の愚痴になる。
 しかし、サイファは途中までしか聞いていなかった。
(妓楼? あのユウザが?)
 まさか! と否定しかけたところへ、先日の彼の言葉が、まざまざと蘇る。
『ここ数ヶ月、夜毎逃げ出すお前に付き合わされて、ろくに女を抱く暇もなかった。好い加減、禁欲生活にはうんざりしていたところなのに、目前の誘惑に、抗いきれる訳がない』
 あの時、ユウザは女を抱く暇≠ェなかったと言った。それはつまり、暇≠ウえあれば、抱きたい女≠ェいた、ということだ。
 思いがけなく突きつけられた真相は、想像以上にサイファを打ちのめした。
 その相手が特定の女≠ナあろうと、不特定の女≠ナあろうと、もはや大差はないように思われた。
 自分は、ただの目前の誘惑――抱きたい女≠フ末席に加えられた、仮初の遊女。やはり、彼が口にしたのは本心だったのだ。
『――まさか、私が本気≠ナ、お前を欲していた、とでも?』
 口元に、乾いた笑みが浮かんだ。覚悟はしていたつもりだったが、第三者の口から改めて聞かされると、さすがに応えた。
 自分が脱走をやめた今、妃が決まるまでのわずかな時間だけでも、ユウザはなじみの娼妓の元へ通うのかもしれない……。
 サイファはぐっと唇を噛みしめ、ヘンシェルを見た。
「とにかく、明日、連れて行けばいいんだろう?」
 皆が寝静まったころ、皇太子ユウザ・イレイズを時計塔へ――。
- 2010.07.18 -
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