Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 60 話  思惑[おもわく][さき]
 立ち上がった拍子に、皇帝の膝から白檀の扇子が滑り落ちる。
 乾いた音を立てて床に転がったそれには目もくれず、ハシリスは慌しく玉座を下りた。足元でひざまずく、第二皇子を抱きしめるために。
「こんなに、やつれて……」
 そなたを案じて夜も眠れませんでした、と涙ぐむ祖母の姿を、ユウザは不思議な思いで見守っていた。
 いつも自分の上に厳然と君臨している女帝が、実の息子の前ではこんなにも脆く、弱さを隠すことができない。それだけ、バスティルが特別≠ニいうことなのだろう。
 自分には決してさせられない顔≠セ、とユウザは思う。そして多分、父のアグディルにも。
「ご心痛をおかけしまして、申し訳ございません」
 顔を上げたバスティルは、淡い笑みを浮かべた。
「まだ、完全に疑いが晴れた訳ではないようですが、ユウザのお陰で、こうして身柄だけは無事に解放されました」
 こちらを顧みて、にこりと目配せをよこす。
 それを受けて、ユウザは小さく、いえ、と首をふった。
「この度の件では、そなたにも苦労をかけましたね」
 ようやく安堵の色を取り戻したハシリスが、労いの言葉をくれる。
「長旅の疲れを癒す間も与えず、ずいぶん骨を折らせてしまいました。今宵は、晩餐の席には顔を出さずとも良い。ゆっくり、お休みなさい」
「ありがとう存じます」
 そうさせていただきます、と辞儀を返した時。
「ああ、でも――」
 ハシリスが思い出したように言葉を続けた。そなたの女官は貸してもらいますよ、と邪気なく笑う。
「貸すだなどと……」
 ユウザは、すっと目を伏せた。
「あれは、陛下がお召しになった奴隷でございますれば」
 わかりきっていることを、なぜ、わざわざ口にさせるのか? と、心中でいぶかりながら応じる。
「では、サイファには、いつも通りに支度しておくよう、伝えておくれ」
「御意」
 そのまましばらくハシリスと歓談するというバスティルと、その警護のためにナザルを残して、ユウザは独り、謁見の間を後にした。
 そうして、自室へ引き上げる最中。
「ユウザ様」
 おっとりとした、女の声で呼び止められた。ふり向いた先に、見知った婦人の顔がある。
「これは、伯母上」
 珍しいところでお会いしますね、とユウザが笑むと、母方の伯母、エリス・ベークは脱いだ面紗[ベール]をたたむ手を止め、セシリアに良く似た美しい顔をしかめた。
「殿下! 私のことを伯母上≠ニ呼ぶのはおやめ下さいませ、と何万回この口に言わせれば、お気がすむのでしょう?」
 いい加減、こちらも言い飽きましたわ、と遠慮なく叱る口調は、昔と少しも変わらない。ユウザは胸の内で、ひっそりと懐かしんだ。
 幼少のころ、世話係として仕えてくれていたエリスは、彼のもう一人の母≠ニ言っても過言ではない。ハシリスの求めに応じて、ユウザが奴隷となってからは特に、気軽にフラウ城へと立ち入れないセシリアに代わって、彼女が自分を育ててくれたようなものだった。母の苛烈な教育方針は、そのままに。
 ユウザの成人後は、夫であるアラン・ベークの仕事が多忙を極めたこともあり、自ら暇を願い出て、今現在は書記官夫人として家を守っているはずだった。よって、こんなところ――フラウ城の政務殿の廊下で出会うのは、とても珍しいことであった。
「悪かったな、エリス。それより、今日は何用でフラウへ?」
アラン殿の使いか? と問うと、エリスはにっこり笑ってうなずいた。
「はい。夫の名代で、先々代の楽師の君をお見舞い申し上げて参りました」
「先々代というと……アストリッド家のキリアン様か?」
 ユウザは、品良く老いた、キリアン・アストリッドの柔和な顔を脳裏に描いた。
 今から五年ほど前、後進の指導中に心臓発作で倒れた彼は、幸い、一命をとり止め、郊外の別荘で静養している。今年で、確か六十七歳になるはずだ。
 皇族の一門であるアストリッド家は、古くから学問や芸術の分野に長けた、最も雅やかな一族である。勢力的な面から、五大公家には数えられていないものの、血筋は極めて尊く、かつては何代にも渡って皇帝を輩出してきた名家であった。
 しかし、血族を重視するあまり、近親婚を繰り返した影響からか、数代前から子宝に恵まれず、一族の血統はとうとう当代のキリアン・アストリッド夫妻が最後となった。縁戚から養子をとったという話も聞かぬので、キリアンは、アストリッドの名前ごと、自分の代で終わらせる心積もりかもしれない。
「ご様子は、いかがであった?」
「相変わらず小康を保っておいでですが、お歳を召されたせいか、近ごろは弱気なことばかりおおせで」
 自分の葬儀は密葬で構わない、とか、自分が死んだら妻の面倒を頼みたい、とか……。
「キリアン様には、その昔、歌舞音曲のご指南をいただいた御恩がある。近い内に、必ずお見舞いに伺おう」
 忙しさにかまけて、すっかり無沙汰にしてしまった非礼を後悔しながら、ユウザは、健勝だったころのキリアンの、宮廷最後の名人≠ニ謳われた舞を思い出した。それから、己を孫子[まごこ]のように慈しんでくれた、優しい笑顔を。
「キリアン様も、きっとお喜びになりますわ」
 エリスはさも嬉しげに声を弾ませると、では私はそろそろ、と[せわ]しく[いとま]を乞うた。
 先日、カレナ城で会った時もそうだったが、今の彼女は夫との二人三脚で、本当に忙しそうだ。
「今度、フラウに来る時は、私の部屋に寄って、ゆっくりナザルの顔を見ていくといい」
 最近は私が独占しているから、ろくに会えずに淋しい思いをしているだろう? と気遣うと、エリスは悪戯な小娘のように大げさに目を瞠った。
「あら、私はユウザ様のお顔さえ拝見できれば、じゅうぶん満足ですわ」
 バカ息子の顔など、良く似た夫の顔で見飽きておりますもの、ところころ笑う。
「まったく、そなたには敵わぬな」
 苦笑いを返して、ユウザはその場でエリスと別れた。
 もうすぐ、十八時。晩餐の時刻まで、さほど間がない。
 皇帝からの伝言を携え居室に戻ると、サイファは既に宴席に侍る支度のため自室へ引き取った後だった。どうやら、エリスと立ち話をしている間に、ハシリス付の召使に先を越されたようである。
「ユウザ様も、今宵は陛下の晩餐会へお出ましに?」
「いや、陛下から直々に欠席を許された」
 脱いだ上着をモーヴに手渡し、ユウザは執務机に向かった。
「これは?」
 机上に置かれた、小さな木箱に目が留まる。細工の奇麗な、宝石箱のようだ。
「先ほど使いが参りまして、ルノエ本家から殿下へ贈り物だそうで……」
「ルノエ家が?」
 ユウザは眉をひそめた。
 今、ルノエと聞いて一番に思い当たることと言ったら、先日、ハシリスから聞かされたばかりの、第一皇女との縁談である。早速貢物か、といささかげんなりする。
 果たして、箱の中には、大粒の緑玉をあしらった男物の指輪が入っていた。表向きは立太子の祝いとなっているが、下心が見え見えだ。
「こんな高価な物を贈られる謂れはない。至急、送り返してくれ」
「せっかくのお祝いを、よろしいのですか?」
 暗に、関係を悪くしても大丈夫か? と心配するモーヴに、強くうなずきを返す。
「構わぬ。こんな石ころ一つで、へたに恩を売られる方が迷惑だ。しかし――」
 ユウザは己の短慮を戒めた。
「そのまま突き返しては角が立つという、そちの憂慮はもっともだ」
 すぐに礼状を書くから少し待ってくれ、と席に着く。
 余計な仕事を増やしおって、と忌々しく思いながらも、文面には言葉を尽くした謝辞を綴る。自分も相当な嘘つきだ。
「悪いが、なるべく早めに持って行ってくれ」
「畏まりました」
 ユウザの命を受け、モーヴは黒々と墨の香る手紙を両手で掲げ持ち、静々と退出した。
(まったく、ルノエほどの名家が、何と品のないことを……)
 アストリッド家と同様、血筋だけならば決して五大公家に引けをとらないルノエ家も、他家の勢力に押され、権力の座から離れて久しい。この縁談をまとめて表舞台に返り咲きたいのはわかるが、やり方があまりに即物的で気に食わない。
 金品の授受で人の心を動かそうという卑しい考えが何より嫌いなユウザにとって、この攻勢は丸きりの逆効果だった。
(どいつもこいつも、金に物を言わせるしか能がないのか?)
 腹を立てつつ、抽斗を開けた。中から、[くだん]の神職者名簿を取り出す。
 せっかくハシリスに貰った貴重な時間は、父を傷つけた犯人探しに費やすつもりだった。
 まず、人事を自由にできる人間といえば、副神官長のシュワル・エカリアと、カルミア・ラシオンの二名。それから、人事院の連中だ。
 更に、この中で最も軍関係者に近しい人物は、間違いなくエカリア家のシュワル副神官長である。同じ副神官長の肩書を持つカルミアも、軍の中枢に同族がいるにはいるが、エカリアの影響力には到底及ばない。
 帝国軍を牛耳っているのは、名実共に中将のコルテ・エカリアである。軍を動かすには彼の協力が必要不可欠であり、長年敵対関係にあるラシオンに、エカリアが手を貸してやるとは考えにくい。
 しかも、五大公家の中でも純血に近いエカリア家は、血筋の劣るラシオンを明らかに格下に見ている。仮に利害の一致を見たとしても、この両家が手を取り合うことは、まずないだろう。
(やはり、怪しいのはエカリア家か――)
 思案を巡らせながら、頁をめくる。
 バスティルが個人で編纂したというこの名簿には、神官一人一人の出自を始め、神学校での成績、交友関係、性格など、彼自身が調べ上げ、また感じたことが細々と書きこまれていた。
 だが、それは決して神官たちの考課が目的ではなく、誰それは魚が嫌いだ、とか、今年三歳になる孫がいる、とか、頭脳は明晰だが引っこみ思案、特に目をかけてやらねばならない、といった具合に、部下を束ねる上で役に立つと思われる情報を書き留めていった結果、でき上がった代物といえた。
 その中でも、上層部の者たちに対する評価は、バスティルの寛容な精神を以ってしてもどうにもならないらしく、商家から多額の賄賂を受け取っているので注意が必要、とか、人の選り好みが激しく人事を任せるのは不安、私への露骨な敵意を見せる、など、思わず目を覆いたくなるような記述が目立つ。
「政治も、軍も、宗教も、腐っているのは、どこもかしこも、神の一族だ……」
 溜め息と一緒に吐き捨てながら、ユウザは頁を[]り続けた。
 やがて、とある人物の記載に目が留まる。
『副神官長、シュワル・エカリアの娘婿。勤務態度は不真面目だが、性格は明るく、どこか憎めない。宝物庫係のシラヌ・ドヌークと親交があり、時折、彼の目を盗んでは、供物の中から上等の葡萄酒を持ち出している様子。今後も続くようであれば、懲戒も考えねばならない』
 その者の名は――……。
 もっと詳しく読み返そうとした矢先、扉が叩かれた。
「入れ!」
 書類に目を落としたまま、応える。
「あ、戻ってきてるね!」
 戸口から顔だけ出して中を覗きこんだのは、身支度で忙しいはずのサイファだった。すぐ行くから、ちょっとだけ待ってて! と、廊下に向かって声をはり上げ、細く開いた扉から、するりと忍びこむように入ってくる。
「お前! その格好!」
 扉を閉めると同時にふり向いた彼女を見て、ユウザはぎょっとして目をむいた。
 今夜のサイファの衣装は、胸の膨らみが半分見えるくらい大きく開いた襟ぐりと、腿の付け根あたりまで深く切りこみが入った、目のやり場に困るほど妖艶な意匠だった。深い藍色の絹が、彼女の象牙色の肌を冴え冴えと際立たせ、似合いすぎるぐらい良く似合っているのは確かなのだが……。
 絶句したユウザを見て、サイファが頬を膨らませた。
「あたしだって、好きでこんな格好してるんじゃないよ! あたしの着る物は全部、陛下のお見立てなんだから!」
 文句があるなら直接陛下に言ってくれ! と、胸の前で腕組みする。そのさまが、どこか蓮っ葉な娼婦を思わせた。
「いくら陛下のご趣味でも、これは目に余る」
 今夜の晩餐会は、確か神殿の関係者を招いた懇親会だ。拘束を解かれたバスティルを始め、各神殿の高等神官級の面々が出席するはずである。
 そんな男ばかりが連なる席で、若い娘にここまで肌を露出させるなんて、祖母は一体、何を考えているのか? 客引きする遊女でもあるまいし、夕餉の席で色気をふりまく必要がどこにある?
 ユウザは強い苛立ちによる軽い眩暈を覚えながら席を立ち、自分の衣装箪笥を開いた。中から丈の長い[はなだ]色の上着を引っ張り出し、サイファに放る。
「それを羽織っていけ。男物だが、ないよりましだ」
「でも……」
「いいから!」
 戸惑うサイファを腹立ち紛れに一喝すると、彼女の肩が脅えたように小さくすくんだ。
「……すまない。だが、お前自身の品性にも関わることだ。何も言わずに、私の言うことを聞け」
 呆然としたサイファの手から上着を取り上げ、むき出しの肩にふわりとかけてやる。
「もし、陛下に咎められたら、私の名を出せ」
 良いな? と、相手の目を見て念押しすると、サイファは小さな子供のように、こくんと素直にうなずいた。
「――で? 大事な宴席の前に、私に何の用だ?」
 ユウザは机の方へと戻りかけ、ごそごそと上着に袖を通している彼女をふり返った。あまり時間がないぞ?
「あ、そうだ! あんたに、お願いがあって――!」
 ふと我に返った様子で、サイファが早口に言いかけた。しかし、言葉尻が躊躇いがちにすぼむ。
「どうした?」
 先を促すと、彼女は一度顔を伏せ、思いつめた目でこちらを見返した。
「明日の夜、何も聞かずに、あたしと一緒に時計塔に行ってほしいんだ」
「それは、できない相談だな」
 ユウザは即刻拒否した。たちまち落胆でゆがむサイファの表情を見守りながら、さらりと付け足す。
「ただし、正当な理由があるなら、考えてやらなくもない」
 明らかに隠し事をしている彼女に、否か応かを突きつける。
「どうする? 訳を話さぬのなら、私は絶対に承知しないが」
 お人よしの彼女のことだから、大方、顔見知りの誰かに泣きつかれ、断りきれずに引き受けてしまったのだろう。皇太子を連れ出してくれ、という、はなはだ胡散臭い頼まれ事を。
 案の定、苦渋に満ち満ちた顔で、サイファが半分口を割る。
「……実は、ある知り合いに頼まれて。どうしても、あんたに話したいことがあるって言うから……」
「その知り合いとやらは?」
「言えない」
「私への用向きは?」
「言えない」
「行けば、私は殺されるかもしれないが――」
「そんなことは、絶対にさせない!」
 頑なにうつむいていたサイファが、勢い良く顔を上げた。
「そいつと約束したんだ! あんたには、絶対に手を出さないって! もし出したら、あたしがそいつを――!」
「わかった、行こう」
 必死に言い募る彼女を、ユウザは承諾の返事で黙らせた。首を洗って待っていてやる、と。
 これ以上の問答は無駄だと思った。
 嘘のつけないサイファは、何かあるとすぐに顔に出すが、その内容をそう簡単には口に出さない。自分を信じてついた嘘なら、なおさら。
「ありがとう!」
 サイファは破顔一笑するや、ユウザの首筋にぶら下がるように抱きついてきた。でも、首は洗わなくていいからね、と耳元でくすくす笑う。
「……とにかく、詳しい話は後だ」
 遠慮なく押し付けられる彼女の躰を遠慮がちに引きはがし、ユウザは柱時計を指差した。
「急がねば、遅刻する」
「うわ! ホントだ!」
 長針が晩餐の始まる十分前を指しているのを見て、サイファは大慌てで身を翻した。
「じゃあ、また明日!」
 晩餐会に出席したら最後、日付が変わるまで戻ってはこられまい。そう心得ているがゆえの、彼女の挨拶だった。
 サイファが騒々しく退出した後で、ユウザは思わず溜め息をもらした。
「また明日――か」
 彼女の自然なふるまいは、時に意図した誘惑以上に[たち]が悪い。体にも心にも、ひどくこたえる。
 サイファを庇護すべき対象として傍に置くと決めたのに、このまま進むも戻るもできない関係が延々続くのは、想像したよりずっと酷なようだ。元より、覚悟の上での決断だったはずだが。
(弱気になっている場合ではない)
 思考を切り替えるように軽く頭を振り、ユウザは机の上から開いたままの名簿を取り上げた。
 自分には、他に心を砕くべきことが幾らもある。その一つが、これだ。
 エカリア家と神殿の宝物庫をつなぐやもしれぬ、重要参考人。その名を、しかと胸に刻む。
 ヘンシェル・アマン――。
 疑わしきは、片っ端から洗い出してやる。
- 2010.09.04 -
 

TREASURE

歌帖楓月様より、このシーンをイメージした素敵なイラストを頂戴しました!
NOVEL || HOME | BBS | MAIL