Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 61 話  日溜[ひだ]まりに[いこ]
 廊下に出ると、果たして、ハシリス付の女官であり、サイファの衣装係を仰せつかっている侍女が、難ずるように眉を寄せた。
「サイファ殿、その上着は何です?」
 内心、ほら来た、と思いながらも、何食わぬ顔で答える。
「皇太子殿下の御服[おふく]です」
「いえ、そういう意味ではなく。なぜ、その御服をお召しなのか? と、お尋ねしているのです」
 中年の侍女は眉間に苛立ちを覗かせながら、それでも口調だけは静かに問いを重ねた。この女性は初めて会った時から、ずっとこうだ。
 サイファに対して、表面上丁寧な物言いをするが、本当は平民出の田舎娘≠ニ侮っているのを、あえて隠そうとしない。だが、それは何も、この女に限ったことではなかった。
 皇帝に召されて間もないころ、陛下お気に入りの I 種を見ようと、宮廷中の人間が入れ替わり立ち代わりサイファの元を訪ねてきた。
 今でも、男たちの幾人かは何かと理由をつけて通ってくるが、女たちは冷ややかな侮蔑を残して、二度とやって来ることはなかった。サイファを一目見て、自分たちとはあまりに異なる価値観に嫌悪感を抱いたようだった。
 皇帝の寵愛を受ける奴隷と親しくしておけば、何かしら利用価値があるだろうと期待したようだが、規格外の彼女は宮廷の女たちの手に余った。飼い馴らすことは愚か、近づくことさえ儘ならない。
 しかし、手に負えないと認めることすら屈辱なのか、女たちは徹底的にサイファを無視した。皇帝主催の茶会や観劇会など、城で飼われているハシリスの奴隷が一堂に会した時も、彼女一人をぽつねんと部屋の隅に追いやり、それがかえって女帝の気を引く結果となったのは、とんだ誤算だったに違いない。
 何にせよ、サイファは諦めていた。初めから自分に敵意しか見せない相手と、自分を殺してまで仲良くする気には到底なれない。
 だから、ふてぶてしいと非難されるのは承知の上で、己を曲げないことにしたのだ。
「皇太子殿下が貸して下さったんです。いくら陛下のご趣味でも、こんなに肌を出すのは下品だ、と仰って」
 あっけらかんと事実を伝えると、侍女の顔色が変わった。
「陛下のご意向を批判するなど、何と無礼な! 皇帝陛下と皇太子殿下のご命令であれば、どちら の[]心に従わねばならぬかは、言うまでもないこと!」
 まるで、皇太子ごときに口出しされる筋合いはない、と言わんばかりの、甲高い怒声を上げる。
「そうだね」
 サイファは頷いた。
「でも、それを判断するのは、貴方の役目じゃない」
 女の目を真っ直ぐに見据えて、言い返す。
「陛下が脱げとおおせなら、その時に脱ぐよ」
 だから今は、皇太子殿下の命に従います、と有無を言わせず押しきった。
 侍女の目が点になろうと、三角になろうと、そんなものは知ったことじゃなかった。
 いつものように、食堂の入口でハシリスの侍女に置き去りにされると、サイファは独り、堂内へ足を踏み入れた。
 その途端、談笑していた客たちの目が、一斉に自分に集まるのを感じる。吐き気がするほど生々しい、下卑た視線。
 サイファは、瞬く間に、里帰りする前と同じ精神状態に引き戻された。この場にいることが嫌で嫌でたまらなくて、今にも逃げ出したくなる。
 それでも、サイファは気丈に背筋を伸ばした。躰に纏いつくような気配に耐えながら、自分のために用意された席へ早々に腰を下ろす。
 食事が始まるのは無論ハシリスが着座してからだが、多忙を極める女帝が予定の時刻きっかりに現れることは稀だった。しかし、そのことは出席する側も心得たもので、皇帝が到着するまでの間、出席者同士で歓談したり、室内遊戯に興じるなどして、思い思いに時間を過ごすのが当たり前になっている。
 そんな中でサイファは、自分自身が彼らの暇つぶしの一つにされているのを知っていた。
 こちらを見ながらの、あからさまな猥談。交される、野卑な含み笑い。複数の男から、しかも同時に、目で犯されているような強烈な不快感に、何度、打ちひしがれたかわからない。
 粟立つ肌を持て余し、ひたすら時が経つのを待ちわびる。この、針の[むしろ]に座り続けて。
(早く終わればいいのに……)
 卓の上に両肘をつき、サイファは掌で顔を覆った。その拍子、袖口から漂う[こう]の名残に、持ち主の面影を見る。
 サイファは、そっと上着に頬を寄せた。鼻腔に流れこむ、凛として清々しい、ユウザの薫物[たきもの]の匂い。
 帰りたい――。
 痛切に、願った。今すぐ、あいつの傍へ帰りたい。
 無意識に、胸の前でしっかり上着の前を掻き合わせる。布地をつかむ指が白くなるほど、きつく。
(誰か、助けて――)
 母さん、と胸の内で救いを求めた時、無数の視線を遮るように、誰かがサイファの横に立ちふさがった。気配を感じて、のろのろとふり仰いだ先に、清涼な笑みが浮いている。
「やあ、先ほどとは、まるで雰囲気の違う装いだね」
 大事な侍女がかどわかされやしないかと、甥殿も気が気でないだろうな、と、にこやかに笑うバスティル・ノースを見て、不覚にも鼻の奥が熱くなった。この人は何て安らかな眼差しで、自分を見るのだろう?
「おや、どうかしたかい?」
 サイファの異変に気づいて、バスティルが微かに眉を曇らせた。
「いえ、何でも……」
 慌ててうつむき、首を振ると、ふいに頭上で呟きがこぼれた。
「……ああ、ここは確かに、風当たりが強い」
「え?」
 何のことかと、思わず顔を上げると、自分を見下ろすバスティルと目が合った。
「私が少し、風除けになってあげようね」
 にっこり笑った彼は、こちらへおいで、と言って、食堂の一隅に据えられた長椅子へサイファを連れ出した。戸惑う彼女を自分の隣にかけさせて、さて、と切り出す。
「陛下がお見えになるまで、昔話をしてあげよう」
 あまりに唐突で脈絡のない申し出だったが、サイファはこくりとうなずき返した。ふわふわと優しい語り口に、つい耳を傾けてしまう。
「あれは、今から十三年と少し前のことだった。この城に、最も幼い奴隷がやってきてね。五歳になったばっかりの、それはそれは可愛らしい男の子だった。その子の名前は、ユウザと言って――」
「え?」
 思いがけず出されたユウザの名に、つい驚きがもれた。しかし、バスティルはそのまま笑顔で続けた。
「神々の直系の身でありながら、半分人の血を受け継いだ皇子で、彼の祖母である皇帝が、達て、と望まれた I 種だった。ユウザが城で暮らし始めたばかりのころ、皇宮に出入りする者たちは皆、こぞって彼に群がった。いくら人の血が混じっていても、正式な世継ぎには違いないからね。幼い内から手懐けておいて、損はない。でもねぇ、そんな不純な動機で近づいてくる大人に、純粋無垢な子供が懐くと思う?」
 苦笑顔でよこされた問いかけに、サイファは大きく首を振った。自分の時とまるで一緒だ、と思いながら。
「当然、ユウザは靡かなかった。そうでなくとも、あの子は昔から賢い子供だったからね」
 いっそ小憎らしいくらいに、とくつくつ笑いながら、バスティルはふと肩に垂らした三つ編みを背に流した。
 今ごろになって気づいたが、彼の装いも、先ほど会った時とは違う、いつもの神官装束に戻っていた。厳かで清廉な、潔い白。
「私から見れば、舌足らずのくせに生意気な口をきくユウザが可愛くて仕方なかったのだけど、そう思わない人間の方が、どうも多かったみたいでね」
 ユウザが決して自分の手駒にはならないと悟った大人たちは、今度は公然と彼を誹謗し始めた。さすがは人との合の子。奴隷風情がお似合いだ、と。
「実際、ユウザは優秀な奴隷だったと思うよ。陛下を慰めることに心を凝らして、主人の願いなら、どんなことでも懸命に応えた。歌に、踊りに、楽器に、学問。そして、剣。求められれば、諸外国の賓客の前で剣舞を披露することも厭わなかった。神の末裔が宴席で見世物になるなど、開闢以来の国辱だ、と周りがどんなに蔑もうとも……」
 そこで、バスティルの言葉が途切れた。頭の中で記憶を再現しているのか、虚ろな表情を浮かべている。
「殿下?」
 その横顔があまりに透明に見えて、サイファは不安になった。彼の魂が体から抜け出て、どこかへ行ってしまったような気がした。
 だが、そんなことはあるはずもなく、彼女の呼びかけに、バスティルは静かな微笑を返した。そして、再び口を開く。
「でもね、その内、誰もユウザのふるまいに口をはさまなくなった。どうしてか、わかるかい?」
「ええっと……あいつの剣が強くなりすぎて、仕返しされるのが怖くなったから?」
 以前、グラハムから聞いた剣の鬼≠ニいう言葉を思い出した。
 サイファは真面目に返したつもりだったが、答えを聞いたバスティルは、あはは、と朗らかに笑った。
 その、思いがけず大きく響いた笑い声に、周りから注目を浴びるのを感じたが、彼はその視線を見事なまでに流した。自分たち以外の者など、端から存在しないとばかりに。
「それも、一理あったかもしれない。だけど、正解は口をはさむ余地を見つけられなくなったから≠セよ。あの子は幼いころから、自分の行いに責任と信念を持っていた。だから、周りが何を言っても、それに対して理路整然と反論できたし、逆に相手を説き伏せることも容易[たやす]かった。つまり、誰にも文句を言わせないだけの風格を、きちんと身につけたんだ」
 サイファは、バスティルの言葉を反芻した。
 他人が口をはさまなくなったのは、口をはさむ余地を見つけられないから。
 では、見ず知らずの人間から、こうして好き勝手なことを言われ続けている自分は、隙だらけということだろうか?
 だとしたら、自分はどうすれば良いのだろう?
 ユウザのように、隷属しつつも、誰からも侵害されない品位を保つなどという離れ業が、自分に真似できるとは思えない……。
 黙りこんだ彼女を、バスティルの穏やかな声音[こわね]が包みこんだ。
「まずは、自分の置かれた立場ではなく、自分自身がどう在りたいのか≠見つけてごらん。そうすれば、それに見合った風格とはどんなものかも、自ずとわかってくるから」
 目を上げたサイファに、柔らかな灰緑色の瞳がうなずいてみせる。
「ところで、そなたはツェラケスタ神殿の御神体は見たかな?」
 先日の立太子の儀式で、と、またしても急に話題が飛んで、サイファは一瞬、ぽかんとした。
 ユウザも時々こんな話し方をするが、こうしてみると彼ら一族の特徴なのかもしれない。一見無関係に思える事柄に、大事な意図を内包する。
 言葉の表面にばかり気を取られていると、うっかり聞き流してしまう。
「え、ああ、はい。紫水晶の瞳の、すごく奇麗な像でした」
「では、あの女神が、どんな衣装を纏っていたか、覚えているかい?」
「え? えーっとぉー……」
 思いがけない質問に、サイファは記憶の糸を必死に手繰った。しかし、官能的な曲線や、生き生きした表情など、全体的な印象は強く残っているのに、女神が着ていた服は、少しも思い出せない。
「……覚えてません」
 限界まで悩んだ末に降参すると、バスティルは悪戯に片目を瞑った。
「答えは、何も着ていない≠セよ」
 豊かに波打つ髪が、薄衣みたいに体のほとんどを覆っているけどね、と。
「え、でも! フェスターシャやタルスは、ちゃんと服を着てたよ?」
 意匠までは覚えてないけど、と思わずタメ口で返してしまってから、サイファは、あわあわと口を押さえた。あまりに親しげに話しかけてくれるバスティルに、つい緊張が緩んでしまった。
「確かに、フェスターシャもタルスも――ツェラケディア以外の神々は、全て衣服を身に纏っている」
「じゃあ、どうしてツェラケディアだけ……?」
 裸なのか、と言外に問うと、彼は真顔で答えた。
「あの像を彫った職人が、かの女神の美貌に見合った衣装を創造できなかったからだよ」
 ツェラケディアは有りの儘の姿が一番美しかった、ということだね、と妙に感慨深げに首肯する。[いにしえ]の彫師の感性に、大いに賛同するらしい。
 それから、ゆるりと首を傾けて、サイファに問うた。
「でも、肌を露わにしていたからといって、あの像からは、少しも嫌らしさを感じなかっただろう?」
「はい」
 サイファは心から同意した。
 それどころか、何も着ていないことにも気づかぬほど、女神の本質に心を奪われていた。その穢れなき美しさに、力強さに、眩いばかりの気高さに――。
 自分も、そう在れたらいい。
 どんな格好をしていても、惑わされない。いつでも、自分を恥じることなく、有るが儘を受け入れてもらえるような存在。
 いくら何でも、ツェラケディアのようにはいかないだろうけど。
「まあ、人間には、生身であるがゆえの罪深い魅力というものがあるからね。そなたの場合は、包み隠すくらいで調度よいと思うよ」
 ユウザがその上着を貸した気持ちが良くわかる、とからかうように微笑みながら、バスティルは軽やかに立ち上がった。
「さあ、行こう。陛下のお出ましだ」
 にこりと笑って、右手を差し出す。鍛えられたユウザの腕とはかけ離れた、白くてほっそりした――でも、同じくらい優しい手。
 差し伸べられた救いを、サイファはありがたく受け止めた。
 バスティルの、全くそれと感じさせない説諭は、サイファの心に、とても素直に響いた。やっぱり、この人は神々との対話者――悩める民を教え導く、神職の長なのだと、改めて実感する。
 ユウザが、あんなに無防備になれる理由も、何となくわかってしまった。
 いくら心を冷たく閉ざしても、バスティルには、それをあっさり融かしてしまう熱がある。この世界を[あまね]く照らす、お日様みたいな。
(今度、ソルヴァイユの礼拝に行ってみようかな……)
 行って、彼の説教を聴いてみたい。それから、あの温かみある声で唱えられる、神聖語の祈りも。
 前を歩むバスティルの背を、サイファは凪いだ気持ちで見つめた。
 全身に吹きつけられていた凍てつく風は、明るい日溜まりで寛ぐ内に、いつの間にかやんでいた。
- 2010.11.07 -
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