Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 62 話  [つみ][わな]
 夜半から降り出した雨が、朝になっても、まだやまない。薄暗い室内を照らす蝋燭の火が、人の動きでか細く揺れる。
「しばらく、女官の仕事を休んだ方が良いのではないか?」
「え?」
 食後の茶を淹れていたサイファは、作業を中断して顔を上げた。ぼんやりした眼差しが、こちらを見返す。
「何だって?」
「少し休んではどうか、と言ったのだ」
 空になった食器を脇によけ、ユウザは正面からサイファを見すえた。彼女の、疲労の浮いた面貌を。
 先刻、二人前の朝食を運んできたサイファは、夢でも見ているように虚ろだった。食事の支度を終え、食べ物を口に運びながらも、どこか上の空で、時折、何かを打ち払うように首を振る。またしても、心ここに在らずだ。
「何で?」
 様子がおかしい自覚がないのか、サイファは怪訝な表情になった。ルファーリで倒れた時もそうだったが、彼女は自分自身の体調の変化に、あまりにも無頓着だ。
「ぼうっとした顔をしているからだ」
 昨日の晩餐の席で何かあったのか? と尋ねると、サイファはきょとんとして首を振った。ううん、何も。
「それなら良いが」
 ユウザは、サイファの懐郷病が宮廷内での人間関係に起因していると考えていた。彼女の身近な人物だけでなく、皇帝を取り巻く不特定多数の人間との関わりが、強い精神的な緊張へと繋がっているのではないか、と。
「まだ旅の疲れも抜けきっていないのだろう。食事がすんだら、自分の部屋で休んでこい」
「大丈夫だよ。明け方、二時間くらいは寝たから」
 小さなあくびをしながら、けろりと返すサイファを見て、思わず嘆息がもれた。
「それだから、手遅れになるのだ」
 鈍感というか強靭というか、意志の力が体の要求を無視するから、ぶっ倒れるまで体力の限界に気づかない。
「どうせ、午前中は大事な打ち合わせがある。その間、お前の同席は不要だ」
 大人しく下がって寝ていろ、と言いつけると、彼女は反抗的な目をした。
「嫌だよ。仕事は仕事だもん」
 絶対に出て行かない、と強気に出る。まったく、何が彼女をここまで駆り立てるのか?
「そんなに私と離れがたいか?」
 軽い冗談のつもりだったのに、サイファは顔を赤くして固まった。図星……だったのだろうか?
「仕方ない」
 溜め息まじりに吐き捨てて、ユウザは食卓から立ち上がった。向かいに突っ立ったままのサイファの手首をつかみ、朝起きて寝乱れたままの寝台へと引っぱっていく。
「ちょっと!」
 何する気だ、と慌てる彼女を横目で一瞥し、ユウザは意地悪く笑んでみせた。
「何って、自分の部屋で独り寝するのが嫌なのだろう? お望み通り、ここで添い寝してやる」
 無論、脅かしである。すれていないサイファには、正攻法でいくよりも、この手の嫌がらせの方が遥かによく効く。
「誰も、そんなこと言ってない!」
 予想通り、彼女は顔色を変え、全力で抗った。何考えてるんだ、バカ!
「では、大人しく自室で休め」
 つかまえていた手を離し、ユウザは戸口を指差した。これ以上逆らうなら、今すぐ寝台に押し倒すぞ、と。
 サイファは拗ねたように唇をとがらせた。しかし、次の瞬間、何を思ったか、いきなりユウザの胸を両手で突き飛ばしてきた。
「危な……っ!」
 寝台の上に後ろ向きに倒され、あっという間に腹の上に馬乗りされる。
 あまりに予想外の展開に、言葉を失った。自分を見下ろすサイファの髪が、銀色の[とばり]のように視界を覆う。
「あんたの虚仮威[こけおど]しなんか、怖くない」
 真っ直ぐ突きつけられる視線の[やいば]を、ユウザは往なし損ねた。情けなく押さえこまれた格好のまま、互いに見つめあう。
「……私は、怖いぞ」
 息苦しさを感じて、思わず浅い吐息がこぼれた。
 サイファの、上気して赤みを増した唇と、思いつめた青い瞳が、恐れをなすほど美しい。
 この女を得るためなら、何を犠牲にしても構わない。そう思ってしまいそうになる自分に、心底恐怖する。
 そこへ、ふいに短い咳払いが割って入った。
「……あの、お取りこみ中、たいへん申し訳ないのですが……」
 笑い出したいのをこらえたような声で、クロエが告げる。打ち合わせのお時間です、と。
「うわぁ! ちょっと待った!」
 自分から[またが]ってきたくせに、取り乱したのはサイファの方だった。素早く寝台を下りて、空しい弁解を始める。これには深い訳があるんだ、とか、誤解しないでくれ、とか。
合図[ノック]もなしとは、ずいぶん無粋だな」
 寝台の上でゆったりと半身を起こし、ユウザは鷹揚に微笑んだ。もう少しで良いところまで行けたのに、と軽口を叩く。
 サイファのように、必死になって否定すれば否定するほど、ど壺にはまるというものだ。それに、正直、ほっとしてもいた。邪魔が入ってくれて助かった、と。
「申し訳ございません。何度かいたしましたが、お耳に届かなかったようで」
 謝罪の言葉を述べつつ、クロエがにっこり笑う。先日の膝枕といい、今日といい、彼には妙な場面ばかり目撃されているが、その表情から、自分たちがどう見られているのかを窺い知ることはできない。
「それは悪かったな」
 口説かれるのに夢中でさっぱり気がつかなかった、と肩をすくめると、背後でサイファが、嘘つけ! と喚いた。
「今さら、何を恥ずかしがっている? 私の上にのしかかってきた時の大胆さは、何処へやった?」
「だーかーらー! そういう誤解を招くような発言を真顔でするなってば! みんなが本気にしちゃうだろ!?」
「ああ、わかった、わかった。続きは後で、ゆっくり付き合ってやる。お前は、夜に備えて休んでおけ」
 半泣きのサイファを、どさくさ紛れに廊下へ追い出し、ユウザは乱れた襟を整えた。入れ違いに集まった側近たちに向き直り、表情を改める。
 さて、始めようか。
「これはまた、絵に描いたような七光りですなぁ……」
 モーヴは呆れ声の中に、ある種の感嘆をにじませた。
 乏しい手がかりの中からユウザが目をつけた人物――ヘンシェル・アマンは、調べを進める内に、実は、たいそう厄介な身の上であることが判明した。
 副神官長、シュワル・エカリアの娘婿であり、宝物庫係、シラヌ・ドヌークの友人であって、五大公家、ダルネ一族の家長、コルヴェート・ダルネの従妹の息子――つまり、再従兄弟[またいとこ]でもあったのだ。
 ヘンシェルの不真面目な態度が黙認されているのは、ひとえに国務大臣であるコルヴェートの威光によるものだろう。持つべきものは、有力な縁故だ。
「アマン家は、皇族一門の中では二流の家柄ですからね。エカリア家との縁組は、ダルネの後援があってこそ実現したと言えるでしょう」
 モーヴの独り言に応じるように、クロエが発言する。エカリアとダルネが裏で手を結んでいるとも考えられますね、と。
「何とも面倒な話になってきましたなぁ」
 卓上に身を乗り出していたナザルは、うんざりしたように椅子の背に体を預けた。誰も彼もが怪しく見える。
「まったくだ」
 投げやりなナザルの呟きに、ユウザは苦笑しながらうなずいた。
 エカリア家と神殿の宝物庫をつなぐ鍵さえ見つかればしめたものだったのに、芋蔓式にダルネ家の大物まで掘り当ててしまおうとは。
(ここはやはり、クロエの言うように、エカリアとダルネが共謀していると考えるのが自然か……)
 軍を掌握しているエカリアと、莫大な財産を有するダルネ。この二家が力を合わせれば、非合法的手段による政権奪取も、夢ではない――。
「とりあえず今は、ヘンシェル個人の動きを把握しておきたい」
 脳裏を過ぎる不吉な可能性を一先ず押しやり、ユウザは目前の問題へ思考を戻した。
「では、早速、見張りの手配を」
 打てば響くように、クロエが申し出る。アマン家の屋敷内にも、一人二人、密偵を送りこんでおきましょう。
 さすが、長年、皇太子の秘書官を勤めていただけあって、クロエは機転が利いた。一から十まで説明せずとも、必要としているものを先取りしてくれる。
「ただ、肝心の神殿内での行動を部外者に監視させるのは、そうとう難しいかと……」
 名ばかりとはいえ、ヘンシェルは高等神官である。神職者しか立ち入れない領域に入りこまれてしまえば、手も足も出ない。
「それでしたら、私に考えがございます」
 横から、ナザルが手を上げた。
「私の知り合いに、先日、タルシニアからソルヴァイユに異動になったばかりの少年神官がおります。今は、古参の下で見習いをしておりますが、それが却って、敵を油断させるには好都合かと存じます」
「ナザル、その者とは先達ての――」
 どこかで聞いた経歴に、ユウザが口を開きかけると、ナザルは力強く首肯した。
「はい。供物の一時保管場所で仕えております、例の見習いです」
「しかし、その者は……」
 ユウザは言葉を濁した。ナザルの人を見る目を信用しない訳ではないが、完全に白≠セと断定できない者を内偵に使うのは、得策とは言いがたい。
「そうですよ、ナザル殿。貴方がその少年を信じてやりたい気持ちはわかりますが、今回の使命には向かないでしょう」
 ユウザの代弁をするように、モーヴがやんわりした口調で戒める。無言で見守るクロエの目にも、同意の色が見て取れた。
 それなのに――。
「皆様の憂慮は、ごもっともです。ですが、あの者の無実は、バスティル神官長御自[おんみずか]らが、お認めになったのです」
 ナザルは引かなかった。
「どういうことだ?」
 ユウザは短く問うた。そこで、なぜ叔父の名が出てくるのか?
「実は昨夜[ゆうべ]、陛下とのご歓談を終えられたバスティル殿下を、ソルヴァイユ神殿までお連れしたのです。どうしても、見習いの少年と直接話をしておきたいとおおせになって」
 その際、バスティルは少年に、ナザルと同じ尋問をしたという。事件当日のこと、風の矢の扱いについて、それから、白い鷲が持ちこまれた状況を。
 少年の証言に前回との食い違いはなく、また、神官長の前でも少しも臆することなく、疾しいことはしていない、と訴えた少年だったが、最後の最後で大粒の涙を流した。
『私が至らなかったばかりに、バスティル神官長には大変なご迷惑をおかけしてしまいました。それに……皇太子でいらしたアグディル殿下に、一生治らないお怪我を負わせてしまったことは、神に仕える身として、いくら悔やんでも悔やみきれません……』
 自分にできる償いならば、どんなことでもする。命を以って[あがな]えるなら、喜んで捧げたい、と泣きじゃくる。
 その姿を見て、ナザルは今度こそ、少年の言葉に嘘はないと確信した。涙にほだされた訳ではない。むしろ、その涙そのものが、信頼するに値する何よりの証拠に見えた。
『もう、泣くのはおよし』
 いつまでもしゃくり上げる少年を、バスティルは優しくなだめた。そして、こう断言したのだ。
『そなたの身の潔白は、このバスティル・ノースが保証しよう』
 だから、そなたの命は皆の幸福のために捧げなさい、と穏やかでありながら、それでいて揺るぎのない声で、少年の傷ついた心をすくい上げる。
「ですから、あの者にとっては、この使命を成し遂げることこそが、アグディル殿下に対する贖罪になると思うのです。……あくまで、私見ではございますが」
 語り終えたナザルが、静かに[こうべ]を垂れる。ご報告が遅れまして、誠に申し訳ございません。
 しばらく、誰も、何も言わなかった。張りつめた沈黙が室内を満たし、窓を打つ雨音だけがわずかに響く。
「……ナザル、その見習いの名は?」
「あ、はい、ヴィム・コレットと申します」
 ユウザの問いに、ナザルがおずおずと答えた。自分の主張を後悔してはいないが、それが出すぎた真似であったことも承知している。そんな顔だった。
「では、ヴィム・コレットをヘンシェル・アマンの配下に置いてもらえるよう、バスティル神官長にお力添えを願おう」
 書状を書くから使いを頼む、とナザルに命ずると、彼の表情が、たちまち明るくなった。
「ありがとうございます、ユウザ様!」
「礼には及ばぬ。お前と叔父上が、二人そろって太鼓判を捺してくれた人物だからな。存分に働いてくれると、期待しよう」
 自分でも、甘いかと思う。
 万が一、ヴィムが敵方の人間であれば、こちらの情報が筒抜けになる。自分から、罠にかかりに行くようなものだ。
 しかし、その時はその時だ、と開き直る自分もいた。危険は伴うが、敵を炙り出す良い機会になるかもしれない――。
「話は以上だ。クロエ、見張りの件は任せたぞ」
「御意」
 一礼して、クロエは、すぐさま退出した。
「それから、ナザル。ヴィムへのつなぎは、そちに一任する。目立たぬよう、うまくやってくれ」
「承知いたしました」
 叔父宛の書簡を手早くしたためると、ユウザは墨の乾く間も惜しんで、ナザルに手渡した。次の予定が差し迫っていた。
 手紙を懐に収めたナザルを送り出し、今度は衣装箪笥に手をかける。公務としてハシリスと昼餐を共にする前に、人と会う約束があった。
「ああ、そういえば。モーヴ、今週中に、アストリッド家のキリアン様を見舞う時間を作れないだろうか?」
 外出用の上着に袖を通しながら、ふと思いついて問うと、モーヴは首をひねった。
「今週ですと……明後日[みょうごにち]の、午後の二時間あまりなら、何とか」
「では、その旨、アストリッド家に連絡を」
「畏まりました」
 自分の予定を諳んじている老執事を頼もしく思いつつ、ユウザは宝石箱から翡翠の首飾りを取り出した。大事に仕舞いこまれていたそれは、三年前、成人の祝いとして献上されたものだ。これから会おうとしている人物が、その贈り主である。
「時に、ミリア達が戻るのは、今日の午後で間違いないだろうか?」
「はい。昨夜[さくや]の内に、伝書がございました」
「それなら、安心して面会できる」
 皇家お抱えの老舗の貿易商、アンバス家が当主、サウル・アンバス――ミリアの父親に。
- 2011.02.13 -
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