Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 63 話  雨上[あめあ]がり
 自室に戻され、大人しく寝台に潜りこんではみたものの、サイファは目を瞑らずにいた。仰向けに横たわったまま、じっと群青色の天蓋を見つめる。
 眠るのが、怖かった。
 今、眠ったら、また夢を見るかもしれない。
 そう思うと、背筋に寒気が走った。
 昨夜、サイファが宴席から解放されたのは、午前〇時を回る少し前だった。
 酔った客にからまれないよう、ほとんど全速力で居室に駆け戻り、豪奢で窮屈な衣装を脱ぎ捨てた。真夜中の湯浴みは許されないから、せめて清潔な浴布で全身を拭い、顔を洗い、髪に櫛を当てる。
 ここまでは、いつも通り。
 宴の後はすぐに寝付けないと、経験上わかっているので、[とこ]には着かず、露台に出て星でも眺めようと思った。しかし、いつの間に降り出したのか、外は冷たい雨だった。
 それで、仕方なしに早めに寝台に入った。
 それが、悪かったのかもしれない。
 転々と寝返りを繰り返しながら、晩餐の席で感じた不快な視線や、それらをふり払う力を与えてくれたバスティルの言葉、ハシリスの笑い声などを、とりとめもなく思い出している内に、いつしか眠りに落ちていた。
 そして、気がついた時には悪夢の中だった。
 またしても、あの黄玉色の瞳の、忌まわしい男の腕に捕らえられ、抱きすくめられ――。
 思い出して、サイファは身震いした。嫌な記憶をしめ出さんと、激しく頭を振る。
 目が覚めた時、これが夢で本当に良かった、と思わず神に感謝した。男に触れられた感触が肌に残っているような気がして、今なお気持ちが悪い。
(何で、あんな奴の夢ばかり見るんだろう?)
 名前も知らない、異国の男。会いたいなんて、欠片も思っていないのに。
 サイファは、もれ出るあくびをかみ殺した。
 昨日は、少しうとうとしては悪夢で飛び起きる、という状態が明け方まで続き、やっと深い眠りに就いたと思ったら、もう朝だった。
 ユウザに疲れた顔をしていると指摘されるのも、いたし方ない。
 しかし、寝不足からくる軽い頭痛は、耐えられないほどではなかった。
 それよりも、再び、あの男を夢に見る方が嫌だった。
 昼過ぎになると、ようやく雨がやみ、薄日が差し始めた。
 ちょうど、そのころである。
 サイファ達より、遅れること三日。ディールで別れた従者ら一行が、ようやく帝都に帰り着いた。
「あ〜、疲れたわ〜!」
 首の根あたりをトントン叩きながら、ミリアは尖らせた唇でぼやいた。飛べない天馬はただの馬ね、と。
 六頭の天馬を以ってして初めて空翔けることが適う箱馬車と、五頭の天馬を残された従者三名は、樹海の一本道をひた走り、ヒリングワーズで風狼船に乗りこんだのも束の間、やはりザルツファストで迂回を余儀なくされた。勾配の急な山道を思う速度では進めず、歯噛みしながらも何とかロゼワイヤルに辿り着き、後は一等速い風狼船を貸しきって、飛ばしに飛ばしてきたという。
「お疲れ様」
 サイファは心からミリアを労った。
 彼女たちの帰りがここまで遅くなったのは、自分のせいだとわかっていた。ユウザの後を追うために、六頭目の天馬[スゥーラ]≠勝手に連れ出したから。
「あんまり長いこと馬車に揺られて、体中の筋肉が凝り固まるかと思ったわ」
 真顔で愚痴りながら、ミリアはぐりぐりと腕を回した。そして、ふいにこちらを見上げる。
「そんなことより、これは一体どういうことか、説明してちょうだいな」
 ピシリと人差し指を突きつけ、彼女は剣呑な眼差しで問うた。これ≠ニ指差しているのは、サイファが大事に抱えたままの縹色の衣装――ユウザの長衣だ。
 昨晩借りたものを洗濯係の元へ持っていく途中で、ミリア達の帰還を知ったのだった。
「どうして、被害者≠ェ加害者≠フ側仕えに納まっているの?」
 彼女の栗色の瞳には、明らかな非難が浮かんでいた。
 ユウザに傷つけられたサイファのために、あんなにも憤ってくれたミリアにしてみれば、今回の女官就任は、酷い裏切り行為に映っただろう。
「ごめん、ミリア。あんたが怒るのも無理ないけど、あたし……あんなことがあっても、あいつのことが好きなんだ」
 サイファは、正直な気持ちを、正直に打ち明けた。彼女に対しては、きちんと釈明する義務がある。
「呆れた! あんな[むご]い仕打ちを受けて、大泣きしたくせに! あの悔しさを、もう忘れてしまったの!?」
 ミリアは細い眉をつり上げた。
 ユウザの行いは男として最低だ。それをあっさり許すなど、女としての誇りはないのか? と、続けざまに罵られるのを、サイファは黙って受け入れた。
 ミリアの言うことは、全く以って正論だった。もし、自分が彼女の立場だったら、同じことを言うに決まっている。
 でも、今の自分にとって大切なのは、正しさ≠ナはなかった。
「誇りなんて、あって、ないようなものだよ」
 サイファは、怯むことなくミリアを見すえた。
「あの時、あんたが一緒になって怒ってくれたのはすごく嬉しかったし、今でも心から感謝してる。本当に、ありがとう。でも、あいつがあたしをどう思っているかは、問題じゃないんだ。あたしはただ、あいつに近い場所に居たい」
 それだけが望みなのだ、と訴える。
 人から見て、それがどんなに愚かで、不毛な片思いであろうとも、自分にはユウザ・イレイズが必要だ。
「……貴方は馬鹿だわ」
 ぽつりと、ミリアは呟いた。そして、独り言のように続ける。
「今まで誇りをもって戴いてきた主人が、あんな情けない男だったことにもガッカリしたけど、五年も傍に居て、その本性を少しも見抜けなかった私も、相当な馬鹿よね。おまけに、そんなクズだとわかっても、どこか信じられなくて……あれには訳があったんだ、って弁解してくれたら、どんなにいいだろう、なんて思っちゃうんだもの。救いようがないわ」
 二人そろって大馬鹿よ、と口にした彼女の顔には、不本意ながらも自分の気持ちを認めなければならないという、葛藤が見て取れた。
 その様子に、サイファは、ふと胸の奥でつかえていたものが、柔らかくほどけるのを感じた。
 自分よりずっと付き合いの長いミリアでさえも、自分と同じ――半信半疑の思いでユウザを見ている。
 そのことが、サイファを勇気づけた。
「あのさ、これはあたしの願望だけじゃないと思うんだけど、あいつの根っこにあるものは、やっぱり正義≠セと思う」
 ずっと、わだかまっていたこと。
『いくら陛下のご趣味でも、これは目に余る』
 ユウザにとっての奴隷が、本当に肉欲を満たすための道具≠ノすぎないのであれば、道具[サイファ]≠ェ何処でどんな格好をし、誰にどんな目で見られようと、放っておくはずだった。
『お前自身の品性にも関わることだ』
 それなのに、そうしないのは、彼の中に確固たる倫理が備わっているからではないのか?
『もし、陛下に咎められたら、私の名を出せ』
 そうでなければ、自分の名を出してまで、奴隷[サイファ]≠フ人格を守ろうとするはずがない。
『あんたの虚仮威[こけおど]しなんか、怖くない』
 先刻、自分を寝台に連れこむ素ぶりをしてみせたユウザに、あんな啖呵を切れたのも、彼の言葉が本気ではないと、すぐにわかったからだ。
 ユウザがああいう暴挙とも思えるふるまいに出るのは、大抵、彼の言うことを聞かない自分を教え諭す……というより、うまく丸めこみ、意のままに従わせようとする時だけだった。おまけに、そのやり方も脅し≠フ範疇を超えない。
 惚れた欲目はあるかもしれないけれど、どんなに頑張って意地の悪い目でユウザを見ても、彼が[しん]からの悪党だとは、どうしても思えないのだ。
「まったく、恋は盲目、とは良く言ったものだわ」
 ミリアは、サイファに、というよりは、自分自身にうんざりした調子で溜め息をこぼした。私も男を見る目がないのかしら? と。
「そうかもね」
 彼女の天邪鬼な賛同を得て、サイファは晴れ晴れと笑った。
『殿下に言い寄って、冷たく突き放されたご婦人方が、一体、何人いると思う?』
 ユウザが今までに、どんな女性と恋を重ねてきたのか、気にならない訳がない。しかし、同時に、考えてもどうにもならないことだとわかっていた。
 サイファにユウザと出会う前の過去≠ェあるように、ユウザにもサイファと出会う前の過去≠ェある。その隔たりは、決して埋めることができないものだ。
 だから、自分が出会った現在≠フユウザだけを見て、現在≠フ自分が愛した彼に寄り添っていこう。例えこの目が節穴で、未来≠フユウザに失望し、未来≠フ自分が後悔する日が来ようとも。
「それにしても、いつからユウザ様のことを?」
 毎晩、逃げたの、捕まえたの、と、いがみ合っていたくせに、とミリアが首をかしげた。
「いつからだろう?」
 サイファは一緒になって首をひねった。
 ユウザへの想いを自覚したのは、無理やり唇を奪われたあの日≠ナ間違いないが、その時にはもう、恋とか愛とかいう以前に、傍に居るのが当たり前の存在になっていたのだ。今だって、苦しいことがあった時、真っ先にあいつの傍へ帰りたい≠ニ願ってしまうほど依存している。
「わかんないけど、これからも、ずっと、あいつの傍を離れたくないってことだけは、わかるよ」
 真面目な話のつもりだったが、ミリアには惚気[のろけ]に聞こえたようだった。
「はい、はい。貴方がユウザ様に夢中なのは、良ぉーく、わかったわ。でも、殿下付の侍従になったからには、仕事はきちんとしてもらいますからね!」
 そう言って、猫のように瞳を細める。先輩の私がビシバシ鍛えてあげるから覚悟なさい、と。
「お手柔らかに頼むよ」
 サイファは、大げさに渋面を作ってみせた。それに釣られるように、ミリアもきゃらきゃら笑う。
 かつて、この二歳年下の少女が、自分よりずっと大人びて、しっかりしていることに、微かな劣等感を覚えたこともあった。しかし、今は、その堅実で一途な人柄を、頼もしくも、愛しく思う。
 こんな風に、腹を割って話せる友達を得られた自分は、とても幸運だ。ミリアは、きっと生涯の友人たり[]る。
 しかし、そう思うそばから、更なる幸運を願ってしまう、欲張りな自分に気づく。
(エレミナ姫とも、仲良くなれたらいいんだけど……)
 初対面から、どうしようもなく惹かれた、美貌の姫君。
 規則正しく振れる時計の振り子に目をやりながら、サイファは間もなく始まる歌の稽古に思いを馳せた。
- 2011.07.03 -
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