Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 64 話  []きつ[もど]りつ
 宵の口、フラウ城の居室にて。
 大きな溜め息と共に、ユウザは深々と長椅子の背に体を[うず]めた。全身が、隈なく怠い。
 今日も殺人的な忙しさだった、とユウザは自らの一日をふり返る。
 サウル・アンバスとの短い会談の後、国務大臣を交えたハシリス主催の昼食会に出席し、それが終わった足で、急ぎ、イグラティオヌ神殿へと向かった。先日、父のアグディルが参詣の途中で襲撃されたために延期となった、毎月恒例の祭祀を執り行うためだ。
 イグラティオヌ神殿は、ソルヴァイユに次ぐ大神殿で、建国の祖、イグラットを祀っている。皇太子はそこで神狩[かむが]り≠ノ使われる秩序の矢≠作る真似事≠する。
 しかし、いくら真似とはいえ、鍛冶が鍛えた鉄製の[やじり]矢箆[やの]の先端に差しこみ、糸を巻きつける作業だけは実際に行うため、皇位継承権を持つ皇族の子息は、幼いころにその技を教えこまれる。武芸は苦手なのだよ、と公言しているバスティルでさえ、例外なく習得ずみだ。
 もっとも、実用性より装飾性が重視されるため、でき上がった沓巻[くつまき]は伝統工芸的な色彩を帯びた。
 こうして、月一回、年間十二本、皇太子が奉納し続ける矢は、年の瀬に行われる厄払いの大祭≠ナ、身分の別なく、抽選で国民たちへ下賜される。この数少ない貴重な矢を授かるために、人々は皆こぞって神殿に参拝し、また、選にもれても、来年こそは! と、翌年の幸運を願い、一年後の祭りを楽しみに待つのだった。
 ユウザは、皇太子としてのこの神事が嫌いではなかった。昔から、自分の手で何かを作るのは好きだったし、余計なことを考えず作業に集中していると、それだけで精神が研ぎ澄まされる気がして、心地よい。
 そして何より、この毎月の祭事を取り仕切るのが、神官長のバスティルであることがありがたかった。気心の知れた叔父に見守られながら過ごす時間は、緩やかに、穏やかに流れた。
 だが、そうそう安らいでばかりはおられず、参詣を終えるや否や、ユウザは再びフラウ城の執務殿へと取って返し、近隣諸国から届く貢物に対する礼状を何十枚としたため、今の時間になって、ようやく人心地ついたところであった。
「……ところで、サイファは何をしている?」
 ユウザは、茶器を運んできたモーヴに尋ねた。女官就任以来、何かと理由をつけては彼の居室に入り浸っているサイファの姿が、珍しく見えない。
「ああ、彼女でしたら……先刻戻ってきたミリアと一緒に、ユウザ様の沐浴の御支度をしているかと」
 侍従長手ずから茶を淹れながらの、おっとりとした答えが返る。
「そういえば、まだミリア達の顔を見ていなかったな」
 公務に忙殺されて、長旅から帰ってきた部下たちへの労いをとんと忘れていた。
「ナザル、悪いが、グラハムとパティを呼んできてくれるか?」
 ミリアは手が空きしだい来るだろうから、と残る二名を迎えにやる。
「では、私はミリアの様子を見て参りましょう」
 ユウザの前に茶碗を置くと、モーヴも、ナザルの後を追うようにして退出した。
 部屋の内が、にわかに静まり返る。
 ユウザはこれ幸いと、独り物思いに沈んだ。
『アンバス家の力を、ぜひとも借りたいのだ』
 昼前、サウルとの面会を希望したのは、ユウザの方だった。ハシリスに商品目録を届けるため登城した彼に、ついでに時間を作ってもらい、厄介な頼み事をした。
『私めにできることであれば、何なりと』
 ユウザの前置きを聞いて、サウルは力強い二重の瞳を、日溜まりで寛ぐ猫のように細めた。この人当たりの良い笑顔から彼を結構人と侮って、手酷い目に遭った商売敵は少なくないと聞く。
『今、諸外国の上流社会で魔石の収集が流行しているのは、無論、承知のことと思うが、ルファーリの象嵌細工を買い付けに、アンカシタンの隊商が出入りしているという話は、ご存じか?』
『ええ、噂には。何でも、アンカシタンの現国王が、ルファーリで加工した水華石細工を殊の外お気に召されたとかで、アンカシタン国内の宝石商はもちろん、王への貢物にと、マルジュナやミルゼアの政府関係者まで、密かに使いをよこして買い求めているようでございます』
 さすが、国内外で手広く商いをしているだけあって、サウルの情報はより緻密だった。
『ならば、話は早い。実は、そのルファーリに素性の怪しい異国人が出入りしていると小耳にはさんでな。その辺りの詳細を、そなたの情報網で調べてもらえまいか?』
 ハナイ・ヴァンテーリから聞いた話や、ルファーリで起きた騒動、炎舞石によるザルツファストの爆破など、旅の間に見聞きした異変のあらましを伝えると、サウルは厳しい顔付でうなずいた。
『何やら、良からぬ気配を感じますな。ですが、殿下のご依頼自体は、お安い御用でございます。ちょうど、アーレオス同盟の参加国会議を控えて、どこも人の流れが活発になっておりますから、目立たずに動けましょう』
 しばしお時間を下さいませ、と最後には笑顔で請け合ってくれた。
『すまぬな、その忙しい時期に。だが、事と次第に依っては、外交問題にも発展しかねない大事ゆえ、そなた以外に頼れる者を思いつけなんだ』
 顔が広くて、口が堅くて、頭が切れる。それでいて、誠実で高潔。それが、サウルに対する、ユウザの率直な人物評である。
 手をわずらわせて申し訳ない、と丁寧に頭を下げると、サウルは、滅相もない! と、大きく頭を振った。
『私は一商人として皇家の恩寵を賜るばかりか、一個人としてのユウザ様に、不肖の一人娘をお預かりいただいている、大恩ある身。いつか、その御恩に報いることができる日を、心待ちにいたしておりました』
 どうぞ、ご存分にお使い下さいませ。我が君、と恭しくユウザの足元にひざまずく。
『ありがとう』
 そなたの忠心に、心より感謝する――。
 そんなサウルとのやりとりを、ぼんやり回想し終えたころ。
「ユウザ様! パティ・パジェット、陛下よりお預かりしました天馬ともども、本日つつがなく帰還いたしましたっ!」
 バンッと勢いよく開いた戸口に、元気よく敬礼したパティの姿があった。その後ろから、大柄なグラハム・バリがぬっと現れ、静かに一礼する。
「パティ、グラハム、二人とも良く無事に戻ってくれた」
 道中、何か変わったことはなかったか? と、二人を椅子に招きながら問うと、パティとグラハムは同時に正反対の返事をした。
「いいえ、何も」
 と、グラハムが。
「実は、おかしなことがありまして」
 と、もう一方のパティが意気込んで言う。
「聞こう、パティ」
 ユウザが促すと、彼は小さく一つうなずいてから話し始めた。
「ディールを出発する前、村長宅の馬小屋で、天馬に水を飲ませていた時のことなんですが、馬たちが急に落ち着きをなくして、しきりと外へ出たがったんです。天馬はすごく神経質な生き物だから、何か、人間にはわからない異常を感じたんじゃないかと思って、急いで外に出てみたんですけど、これと言って変わった様子は見えなくて……」
「でも、それが未だに気にかかるのだな?」
 勢いこんで話したものの、自信なさげに尻すぼみになったパティの言葉を、ユウザが途中で引き取った。
「はい。僕の思い過ごしかもしれませんが、あんなに脅えた馬たちを見たのは初めてだったので」
「なるほど、良くわかった。動物の聴覚や嗅覚は、人とは比較にならぬほど優れているというからな。村長のヤトン殿には、これから礼状を書くつもりでいた。何か変わったことがないか、しばらく用心するよう、あわせて伝えておこう」
 どんな小さな変化も見逃さないのは良いことだ、と褒めてやると、彼は、さも嬉しそうに満面に笑みをたたえた。
 今回の旅を通じて、一番得るものが大きかったのは、もしかすると、パティかもしれない。ここ数日で、彼はずいぶんと成長したように思う。
 そこへ、軽やかに戸を叩く音がして、ミリアとモーヴが入ってきた。
「お帰りなさいませ、ユウザ様」
 にっこり笑って、ミリアは優雅に腰を折った。だが、その表情に少しも険が含まれていないことに、違和感を覚える。
(私は、嫌われたのではなかったのか?)
 村を出る直前まで慇懃無礼だったミリアが、今では、すっかり昔の彼女に戻っていた。例のサイファに対する一件以来、あれほど嫌悪感むき出しで接せられていたのに。
「湯浴みの支度が整っておりますので、どうぞ、ごゆっくりお寛ぎ下さいな」
「ああ、すまない。それより、今朝、そなたの父君にお目にかかった。すれ違いになってしまって、残念だったな。そなたの元気な姿を見たら、サウル殿も、さぞかし喜ばれたことだろう」
 近い内に顔を見せに帰ってやれ、とユウザが言うと、ミリアは、はい、と素直に同意した。その顔にも、やはり曇りがない。
 まったく、女というものは本当に何を考えているのか良くわからない。
「三人とも、今日は疲れたろうから、早々に休むが良い。グラハム、そなたには、まこと世話になったな。今後は、また誰か要人の警護を?」
 宮人とはいっても、身よりがなく特定の主君を持たないグラハムは、武芸者としての力量を買われ、剣の腕一本で生きていた。そのため、仕える主もその時々によって違う。
 今回は、サイファの里帰りのために、その時まで仕えていたバスティルから、特別に借り受けた形となっていた。
「はい。恐らくは、皇帝陛下のお傍に置いていただくことになるかと」
 バスティル様には帝都防衛隊の屈強な兵が付ききりで、当分、私の出番はなさそうなので、と淡々とした言葉が返ってくる。
「さようか。陛下の護衛ならば、またすぐに会えるだろうが――」
 達者でな、と右手を差し出すと、グラハムは、畏れ多うございます、と握手を辞退し、代わりに、ユウザの足元に膝を着いて、長衣の裾に軽く唇を寄せた。最後まで、頑なな姿勢を崩さない男だった。
「それでは、私はこれでお暇を」
 すっくと立ち上がったグラハムは、その場で深くお辞儀をすると、きびきびと部屋を辞した。
 去り行くその背を眺めながら、ユウザは、ようやく旅が終わったのだ、と思った。そして今夜、新たな何か≠ェ始まる。
『明日の夜、何も聞かずに、あたしと一緒に時計塔に行ってほしいんだ』
 危うい案内人[サイファ・テイラント]≠ノ導かれ、辿り着く先は、何処[いずこ]――?
「そういえば、サイファはどうした?」
 ミリアと一緒に風呂の用意をしていたのではなかったのか? と、モーヴをふり返ると、ミリアはきょとんとした顔になった。
「サイファなら――」
「御湯殿で、ユウザ様のお出でを待ち侘びているかと存じます」
 ミリアの声に被せるように、モーヴが笑って答えた。今ごろは湯舟の中で、と悪戯な目配せをよこしながら。
「何を馬鹿なことを」
 いつもの上品な老執事らしからぬ艶めいた戯言を不審に思いつつ、ユウザは居室を後にした。
 モーヴは何か≠ごまかそうとしている。
 恐らくは、この時間にサイファがどこかへ行ったまま、不在であることを。
 しかし、確かにサイファは湯殿に居た。
 床から天井まで全て白大理石でできた浴室は、浴槽いっぱいに張られた湯から立ち昇る蒸気で、乳白色に霞んで見えた。
 そんな中、まるで長時間湯気に当てられてのぼせたと言わんばかりに、頬を薔薇色に染めたサイファが、独り立ち尽くしている。
「本当に居たのか」
 思わず、そんな感想がもれた。だが――。
「え? なん……だって?」
 答えた彼女の息が明らかに上がっていることに気づき、やはり、と思う。
 大方、モーヴの入れ知恵で、出先から直接こちらに駆け戻ってきたのだろう。荒い呼吸を整えようと深呼吸を繰り返すため、肩がゆっくり上下している。
 こんな小細工をしてまで自分に隠さねばならない用事とは、一体、何なのだろう?
「今日は何をしていた?」
 上着の釦に指をかけながら何食わぬ顔で尋ねると、サイファは一瞬、考えるような表情を浮かべた。
「えーと、午前中は部屋でゴロゴロして、午後はミリアが帰ってきたから、一緒に細々とした用事を片付けて、それから……うん、そんなとこかな」
 うん、と、もう一度、念を押すみたいに大きくうなずく。相変わらず、嘘が下手な女だ。
(でも、まぁ――)
 モーヴが関与していることならば間違いもあるまい、と思い直し、ユウザはこれ以上の詮索はやめることにした。脱いだ上着を乱れ籠に放りこみ、サイファへ向き直る。
「風呂に入る。外してくれ」
「あ、うん」
 うなずいて、彼女は大人しく廊下へ出て行った。
 と、思ったら、しばらくして、こちらが湯舟に浸かるのを見計らっていたかのように、カラリと硝子戸を開けて戻ってきた。驚いてふり返ったユウザへ、邪気の欠片もない笑顔で言う。
「せっかくだから、背中流してやるよ」
 そうして、早くも腕まくりだ。
「要らぬ」
 ユウザは即座に断った。前に向き直り、浴槽の湯で無造作に顔を洗う。
 奥手のくせに、というか、奥手だから、というべきか、全裸の男の元へ堂々と乗りこんでくるサイファの思考回路は、ユウザの理解を超えていた。もう、相手をする気力も湧かない。
「遠慮するなよ。背中って、自分の手じゃ届かないだろ?」
 人に洗ってもらうと気持ちいいんだぞ、となおも主張する彼女に、ユウザは冷ややかに言い放った。
「私は、人にかしずかれるのが大嫌いだ」
 風呂くらい一人でのんびり入らせろ、と半ば本気で毒づく。
「じゃあ、いいよ……」
 サイファはしゅんとして声の調子を落とすと、すごすごと踵を返した。その途中、聞き捨てならない台詞を残して。
 テラは喜んでくれたんだけどな、と。
「ちょっと待て!」
 ユウザは、サイファの手首をむずとつかんだ。
「あの男が、何だって?」
「何って……テラの背中を流してあげた時、すごく気持ち良さそうにしてたんだよ。『お前は腕の力が強いから、凝りまでほぐれる』って言って。だから、あんたの疲れもとれるかな、って思ったんだけど……嫌なんだろ?」
 そう言って、彼女はこちらを窺うような目をした。人が嫌がることはしたくないから無理にとは言わないよ、と告げる口ぶりが、叱られた子供のようにしょ気かえっている。
「……それは、無論、幼いころの話であろうな?」
「ううん、割と最近のことだよ。怪我をした直後なんかは『片目では風呂に入るのも一苦労だ』って、散々ぼやくからさ、いつも手伝ってあげてたんだ。あ! でも、別に、服脱いで一緒に入ってた訳じゃないから、妙な誤解するなよ?」
 押し黙ったユウザを見て、サイファがようやく慌てた顔をした。しかし、彼の耳に、その弁解は届いていなかった。
(あやつめ……)
 脳裏に、にんまり笑ったテラの顔がありありと浮かんだ。
 何が、俺では駄目だ、だ。しっかり、やることはやっていたのではないか。
 美しい男の友情に、わずかな亀裂が走った瞬間だった。
「お前があの男と何をしていようと、私には関係のないことだ」
 引き留めていた手を放し、ユウザは再びサイファに背を向けた。さっさと行け、と八つ当たり気味に吐き捨てる。
「あんた、人の話聞いてなかっただろ? 大体、テラは、あたしの兄貴みたいなもんなんだぞ?」
 変な目で見るのはよしてくれ、と苦笑するサイファの声に、テラのかすれた声音が重なった。
『俺は一度だって、あいつを妹と思ったことはないけどな』
 苦しい、恋の告白。
 魔が差したとしか、言いようがなかった。
「テラは、お前のことを女≠ニして愛しているぞ」
 無意識に口走ってしまってから、強い後悔に襲われた。彼が長年封じこめてきた想いを、自分が軽々しく口にすべきではなかった。
「そんなこと……」
 ある訳ないと思う、と、すぐさま否定したサイファだったが、言葉とは裏腹に、その顔には戸惑いが見てとれた。
 また、やってしまった。
「悪かった。今のは、私の勝手な憶測だ。忘れてくれ」
 ユウザは辛うじてそれだけ伝えると、ざぶんと頭まで湯に浸かった。
 どうして、己の心を制御できなくなるのか。
 自分の不甲斐なさに、自分で嫌になる。テラと張り合うつもりなど微塵もないのに、サイファの口から慕わしげに思い出を語られる度、愚かな妬心[としん]が頭をもたげる。
(見っともない……)
 息が続かなくなったところで水面から顔を出すと、洗い場に座りこんだサイファと目が合った。こちらの不用意な一言にふり回され、狼狽した眼差し。
 この女は、本当に鈍いのか、本当は鋭いのか、時々判断に迷う。
「もう、気にするな。さっきのは……単なる嫉妬だ」
 ユウザは、自分でもそれとわかるほど、弱々しく笑んだ。服を着ていないという無防備な状態が心まで覚束なくさせるのか、普段なら決して許さない己の脆さを、素直に認めてしまう。
「嫉妬って……テラに? あんたが?」
 サイファは怪訝な顔になった。どうして? と、問い返す目が、真っ直ぐユウザに据えられる。
 雨上がりの紫陽花のような、潤んだ双眸。この世に二つしかない、極上の青玉。
 この瞳が、いつも自分を狂わせる。
「……言わずとも、わかるだろう?」
 [こら]え性のない本当の自分≠ヘ、あっさり分別まで投げ捨てた。音立てて湯から上がり、濡れた躰のまま、サイファを抱きしめる。
「ちょっと、何す――っ……!」
 抗議しかけたサイファの声が、途中から悩ましげな吐息に変わった。
 逃れようとして後ずさりしかけた彼女の腰を、ユウザが軽く撫で上げたからだった。しなやかに反る背を右手で支え 反動で[あお]のいた喉元に、くたりと額を預ける。
 この柔らかな躰を一度でも我が物にすれば、この[かつ]えるような懊悩[おうのう]からは解放されるのだろうか?
 確かめてみたい衝動に駆られて、抱き寄せた諸腕に力を込めると、彼女は微かに身動[みじろ]ぎした。でも、抵抗はなかった。
 それを良いことに、しなやかな銀の髪に、額に、金の雫を宿した耳朶[じだ]に、一つずつ接吻[キス]を落としていく。
 そして最後に、薄く開いた朱唇[しゅしん]に口づけしかけたところで――。
「……ユウザ……すき……」
 喉の奥から搾り出すように囁かれた言葉が、ユウザの鼓膜を震わせた。それと同時に、捨てたはずの分別が戻ってくる。
(好き――だと?)
 ユウザは素早くサイファの顔に視線を走らせた。
 誘うように、ほころんだ唇。しかし、それとは対照的に両の瞼は静かに閉ざされ、今のが官能に流された譫言[うわごと]なのか、真心からの睦言[むつごと]なのか、判然としない。
(……試すまでもなかったな)
 たった一度でも、知ってしまったが最後。絶対に、一度だけではすまなくなることぐらい、わかっていた。
 わかりきっていたからこそ、今まで耐え忍んできたのではなかったか。
 真、自分≠ニいう人間は、油断がならない。己に都合の良い理屈をあれこれ捻り出して、何とか想いを遂げようとする。
 そうでなくとも敵は手強いというのに……。
「あまり、私を苦しめるな」
 サイファの耳元で恨み言をこぼすと、ユウザはそっと体を離し、脱衣所へと引き上げた。
 まだ、くたばる訳にはいかなかった。これから、もう一仕事残っている。
 気の抜けない、謎の人物との対面が。
(今夜は、眠れぬかもしれぬな)
 ユウザは軽く頭を振り、髪の水気を飛ばした。背筋を流れ落ちた雫は、既に熱を失っている。
- 2011.10.09 -
NOVEL || HOME | BBS | MAIL