胡桃色の物憂い瞳が、ゆっくり瞬きを繰り返した。やがて、室内の状況を確かめるように、視線が彷徨い……。
「目、覚めた?」
薄っすらと瞼を持ち上げたクロエを覗きこみ、サイファは笑いかけた。
「良かった。なかなか起きないから、心配したよ」
医師の治療を受けながら、半ば意識を失うように深い眠りについたクロエは、今この時間――正午になるまで、一度も目を覚まさなかった。そんな彼の枕辺で、サイファもまた、一睡もせずに付き添っていたのだった。
「気分は、どう? まだ痛む?」
「……いや……平気だ……」
サイファの問いに、クロエは気だるげに答えた。まだ頭がぼんやりしているようで、緩慢な仕種で目頭を揉んでいる。
「もうすぐ、ルーアン先生が様子を見にきてくれることになってるから、しばらくのんびりしてて。――何か、欲しい物ある?」
サイファは軽く室内を見回した。
つい先日、カレナ城からフラウ城へ越してきたばかりだというクロエの居室は、酷く殺風景だった。窓辺に据えられた簡素な書き物机と、小さな衣装箪笥が一棹。小ぶりの硝子の戸棚には、飾り気のない白磁の茶器が一揃い、静かに伏せられている。
一応、生活に必要な家財は一通り揃っているようだが、逆に言えば、無駄な物が何一つ置かれていない。生活感に乏しい、彼らしさ≠フ感じられない部屋だった。
「特にない。……それより、今何時だろう?」
ずいぶん長いこと眠っていたような気がするが……と呟いて、クロエは上体を起こそうと右手をついた。その途端、鋭くうめいて顔をしかめる。怪我をしているのは右肩だ。
「あ、ほら! 無理しちゃダメだって!」
すがりつくようにして助け起こしながら、サイファはきゅっと唇を噛んだ。彼の痛みが、そのまま自分の痛みとなって跳ね返ってくるような錯覚にとらわれた。
侍医の見立てでは、完治するまで約一月かかるという。その内、丸一週間は絶対安静を言い渡されている。
「……すまない。世話をかけた」
サイファの手を借り、ようやく寝台の頭板に上半身を預けたクロエは、額に汗をにじませていた。傷のせいで、体全体が熱っぽいのだろう。鉄紺色の寝間着の下から覗く、幾重にも巻かれた白い包帯が痛ましい。
サイファは、またしても瞳の表面が涙の膜で覆われていくのを感じた。ユウザに泣くなと言われたから我慢しているけれど、ちょっとでも気を緩めると、涙がこぼれ落ちそうになる。
「そんなの、気にしなくていいよ」
鼻声をごまかそうと、わざとぶっきらぼうに返して、サイファは洗面器の水に手拭を浸した。軽く絞って、そっとクロエのおでこに当てる。
「ありがとう」
冷たくて気持ちがいい、と心地よさげに目を閉じた姿を見て、サイファはほっと息を吐いた。
いくら命に別状がなかったとはいえ、自分の盾となって傷を負ったクロエは、間違いなく命の恩人である。せめて、まともに日常生活が送れるようになるまでは、自分が責任をもって面倒をみる。それだけが、今の自分にできる唯一の償いであり、そうしたいと願う、強い希望でもあった。
「ところで、もうお昼だけど、お腹空いてない? 病気じゃないんだから、食いたいものがあったら、何でも言ってよ」
サイファはとんと胸を叩いてみせた。クロエが望むなら、例の紫亀だって取り寄せてみせる。
そんな彼女の気迫が伝わったのか、クロエは目元を和らげた。
「食事はまだいいが……喉が渇いたな」
水が欲しい、と素直に甘えてくれる。
その少年じみた言いざまが可愛く見えて、思わず笑みがこぼれた。大の男を、可愛いだなんて。
「何か、おかしなことを言っただろうか?」
笑われる理由がわからない、と真面目な顔で気にする姿もやっぱり可愛くて、サイファは肩をゆすって笑い続けた。
「……ごめん。何でもないんだ」
一頻り笑って、目尻に浮いた涙を指で拭う。
「――お水だね? ちょっと待って」
怪訝な顔のクロエに微笑みを返し、サイファは脇机に置かれた水差しに手を伸ばしかけた。そこへ、予期せぬ物が目に留まり、あっ、と短く声を上げる。
「いけない、すっかり忘れてた! これ、治療の時に邪魔だったから、勝手に外しちゃったんだけど……返すね」
とりあえず机の上に置いて、そのままにしてしまった預かり物をクロエに差し出す。薔薇の花を象った、紅水晶の首飾りだ。
「あっ……」
外されていたことに気づいていなかったようで、クロエは一瞬、青ざめたように見えた。その様子から、その首飾りがとても大切なものなのだろうと察せられて、サイファはますます申し訳ないことをしたと思った。
「ごめん。すぐに返せば良かったね」
昨夜、血だらけになったクロエの上着を布鋏で断ち切ると、彼の滑らかな胸の上で、可憐な薔薇がひっそりと息衝いていた。意匠がどう見ても女物であることと、服の下に隠してあったことから、それが装飾を目的としていないことは明らかで、身代わり石か、あるいは何か曰くのある品であろうことは容易に推察された。
「……いや、気にすることはない」
受け取った石を見つめるクロエの面持ちは、先ほどまでとは打って変わって、どこか虚ろだった。石を通して、思い出の海に沈みこんでしまったような……。
しかし、その翳りのある眼差しは、サイファにとって馴染み深いものだった。鏡を覗けば、今でも時おり見える。
「あのさ、その首飾り――」
もしかして死人の守か? と、言い終える前に、見開いたクロエの瞳と目が合った。
「やっぱり。何となく、そう思ったんだ。あたしも、ついこの間まで死んだ母さんに守ってもらってたから」
肩をすくめて告白すると、彼は乾いた笑みを浮かべた。
「確かに、これは死んだ二親の形見だが、彼らに守ってもらおうと思ったことなど、一度もない」
「じゃあ、どうして肌身離さずつけてるんだ?」
「忘れないためだ」
クロエは親指と人差し指で薔薇をつまみ上げ、窓から差し込む陽射しに翳した。まるで、石に封じられた記憶を眺めるように。
「私の父親とされる男は、宮人の名家の出で、社会的地位の高い男だった。自分よりも高貴な血筋の妻がいて、跡継ぎとなる息子もあった。世間で言うところの、立派な紳士だ。その立派であるはずの紳士が、世間知らずの令嬢に手を出した。そして、生まれたのが私だ」
思いがけない打ち明け話に、サイファは息をのんだ。自分の発した不用意な問いが、クロエの古傷を開いてしまった。
「当然、私の存在は誰にとっても歓迎すべからざるものだった。令嬢には生まれながらの許婚がいたし、紳士には、家柄の良い正妻の手前、私を引き取ろうなどという考えは毛筋もなかった。だから、大枚と共に、商家であるカートラム家へ押しつけたのだ」
ここまで淡々と語っていたクロエが、ふいに微笑んだ。いつもは瞳の奥に覗かせている憂いが前面に押し出されたような、暗く、淋しい笑みだった。
「そういう訳で、この大恩を決して忘れないために、たった一つの形見を大事にしている」
美談だろう? と、最後には皮肉な冷笑でしめくくる。
「……あの、一つだけ、聞いてもいい?」
ここまで首をつっこんでしまった勢いで、確かめてみたいことがあった。目顔でうながすクロエに、おずおずと尋ねる。
「あんたのお父さんとお母さんは、いつ亡くなったんだい?」
「父親の方は、私が六つの時だった。母親は、私を生んで間もなく、嫁ぎ先で病死したそうだ」
もちろん、どちらの葬儀にも参列していないが、と鼻で笑うクロエが、ひどく痛々しく見えた。
「そっか……」
かけてやれる言葉が見つけられず、サイファは沈黙した。
クロエが、自分を捨てた両親を恨んでいるのは事実だろうが、その辛辣な言葉とは裏腹に、浮かべた表情の端々に亡くなった者への歪んだ思慕を感じた。
(だから、惹かれたのかな……?)
クロエに感じた親近感は、死の匂い≠セと思った。自分も、かつて纏っていた、虚無の気配。
つい最近まで、死人の守という、ある種の負の安らぎ≠ノ身をゆだねていたサイファには、彼の心がわかる≠ニは言わないまでも、共感できる部分が多分にあった。
また、それと同時に、そんな自分をユウザが救ってくれたように、自分がクロエの助けとなれたら良いのに、とも思う。
「――でもさ、忘れるってことも、選択肢の一つだと思わないか?」
首飾りを指差し、サイファはダメもとで言ってみた。
「それ、つけるのやめてみたら?」
何なら、あたしが預かってやってもいいよ? と、ユウザに託した耳飾りに思いを馳せる。
「却下だな。あいにく、自分を痛めつけながら生きるのが性に合ってるんでね」
自虐的だという自覚はあるらしい。クロエは嘲るように苦笑した。
「そう、なら仕方ないな」
サイファは、無理強いはしなかった。忘れない≠スめだけでなく、忘れたくない≠ニいう気持ちが潜んでいることも、よくわかるから……。
「そういうお前の御守は、どうした?」
首飾りの金の鎖をもてあそびながら、クロエは話題を変えた。これ以上、自分のことは話したくないのかもしれない。
「大事な人に預けてある」
サイファもぼかして答えた。
ユウザの耳朶に輝く耳環が、元はライアの形見であるという事実を知る者は、この城には誰もいない。このまま、ユウザと二人だけの秘密にしておきたかった。
「なるほど。だから、私のも預かると言ったんだな」
クロエは得心したようにうなずいた。
「それで? 死者の呪縛から解き放たれた気分は、どうだ?」
軽口を装った、この切実な問いに、サイファは真摯に答えた。
「……正直、軽くなったよ。ずっと一人で抱えてたものを、一緒に持ってもらってるんだから」
今、こうして自分が立っていられるのは、ユウザが支えてくれているからだ。彼を失えば、今度こそ立ち上がれなくなるだろう。
それを思うと、ものすごく怖い。怖くて、不安で、眠れなくなる時もある。
それでも、自分は立ち上がりたかった。前へ踏み出したかったのだ。
生きろと言ってくれた、ユウザと共に――。
「あんたにも、そうやって荷を分かち合ってくれる人がいたらいいと思う」
「……そうだな」
クロエは静かに同意した。しかし、それだけである。
「気が変わったんなら、今からでも受けつけてやるけど?」
首飾りを指差して、サイファはニッと挑戦的に笑ってみせた。彼の心がそう簡単に動くわけがないと、わかっていたから。
「そうだな、あと四、五十年ほど経ったら、もう一度聞いてみてほしい」
その頃には預ける気になっているかもしれない、とクロエもすまして応じる。
「バカだなぁ。そんなに経ったら、あんた自身の形見になっちゃうじゃないか」
「ははっ……痛いところを突いてくれる」
サイファの毒言を苦笑いでいなし、クロエはふっと短く溜め息をついた。それから、おもむろに鎖の留金を外しにかかる。
その動作を、サイファは手を伸ばして遮った。
「貸して。つけてあげる」
「いや、自分で――」
「できないよ。首の後ろまで、腕が上げられないだろ?」
言うが早いか首飾りを奪い取り、さっさとクロエの首にかけてしまう。
「はい、終わり」
石が正面を向くよう整えてから、手を離す。
「素早いな」
クロエは呆れたように笑った。抵抗する間もなかった、と目を細めて。
「これからしばらくは、あたしを自分の手足と思って使ってよ。遠慮はいらないよ」
サイファは、彼の顔を真っ直ぐに見すえた。
根本的に、クロエは優しい。
そして、心に抱えた闇ともども、ちょっとだけ自分と似ている。
「……ありがとう」
応じたクロエの瞳に、穏やかな光が宿った。助かるよ、と好意的に贖罪を受け入れてもらえたことに、安堵だけではない喜びを覚える。
「早速だが、一つ頼みたいことがある」
クロエは、サイファが遅れ馳せながら手渡した水を受け取ると、いつもの冷徹な口調に戻って言った。
「何?」
「手足の交代だ」
「は?」
ぽかんと口を開けたサイファに、事務的な調子で続ける。
「私の看護人の話だ。お前の気持ちはありがたく受け取ったが、正直なところ、お前では私の手足は務まらない」
「何で?」
サイファはむっとして、クロエを睨みつけた。こう見えても、病人や怪我人の世話には慣れているのだ。
「理由は二つある」
彼女の鋭い視線にも動じることなく、クロエは右手の指をすいと二本立てた。
「まず一つ目は、お前がユウザ様の愛妾だからだ。こんなところで、他所の男にかまけている場合ではない――」
「ちょっと待て!」
涼しい顔で吐き出された爆弾発言に、サイファは大声で待ったをかけた。
「愛妾だって? あたしが? あいつの?」
冗談じゃない! と、目を瞠る。
「何を今さら隠す必要がある。お前は、ユウザ様のご寵愛を受けているのだろう?」
旅の途中も二人で睦まじく膝枕などしていたろうに、と真顔で指摘され、サイファは両手を激しく振って否定した。
「受けてないよ! 全っ然、一っかけらも受けてない!」
むしろ、精神的に振り回され、虐げられているくらいだと必死に訴える。
「……では、ユウザ様と同衾したことは一度もない、と?」
「当たり前だっ!」
サイファは、自分の顔が真っ赤になっているのが、鏡を見ないでもわかった。自分とユウザの関係がそんな風に見られているなんて、考えもしなかった。
「これは意外。てっきり、相当深い仲だと思っていたが……」
「勘違いもはなはだしいよ!」
クロエの婀娜めいた思い違いに、全身全霊をかけてツッコム。妙な噂を立てられたら、事実無根なだけに目も当てられない。
「まぁ、良い」
そういうことにしておいてやろう、とクスリと笑ったクロエだったが、すぐに表情が改まった。
「問題は二つ目だ。私が欲しいのは、身の回りの世話だけでなく、宮廷内で自由に動ける人間だ。場合によっては、皇居だけでなく、城下にも用足しに行ってもらう必要がある」
だから、お前には無理だ、と断言され、返す言葉を失う。帝都の地理や宮廷のしきたりに不案内という以前に、皇帝の奴隷が勝手に城の外へ出ることは許されない。
「……じゃあ、誰なら務まるの?」
あきらめて、サイファは尋ねた。内心、ミリアあたりが適任なのだろうと思いながら。
しかし、その予想は見事に外れた。
「モーヴ殿のご令孫にお願いしたい」
「パティ!?」
思わず、声が裏返った。馬の世話は中々堂に入っていたパティ・パジェットだったが、怪我人の看護が務まるかどうかは未知数である。
「そんなに驚くことだろうか?」
骨杯を小さく傾けて喉を潤し、クロエは言葉を継いだ。
「彼はまだ少年だが、宮廷で働き始めて、もう二年になる。城内の噂話にも聡いだろうし、御者という御役目柄、使い走りも慣れたものだろう。それに――」
男同士の方が何かと都合の良いこともある、と悪戯な笑顔を浮かべる。
「……まぁ、あんたが良いって言うなら、かまわないけどさ……」
何となく腑に落ちないものを感じながらも、サイファは了承した。後でモーヴ爺さんに聞いてみるよ、と請け負ってから、ためらいがちにつけたす。
「……だけど、今日くらいは、あたしがついててもいいだろう?」
小首を傾げて尋ねると、クロエは吐息を洩らすように、ふっ、と笑った。
「ああ、もちろん」
大歓迎だ、と微笑する。
「良かった!」
サイファは心から笑顔を返した。
知れば知るほど、好きになる。
その直感は正しかったのだ、と確信を新たにしながら。
- 2012.09.23 -