Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 68 話  [][つま]よ、[][つま]
「――では、毒を盛られたのは獄中ではなく、昨日の昼より前だった、と?」
 報告書に目を通したユウザは、向かいの席で、うまそうに紅茶を啜っている老人に問いかけた。
 一仕事終え、すっかり寛いだ表情を浮かべているのは、イグラット皇宮の御殿医、ルーアン・メレディス翁である。検死の報告かたがた、ユウザの自室で昼餐を供された彼は、さようでございます、と深くうなずいて、飲み干した茶碗を卓に戻した。
「彼らが飲んだのは、死霊石≠ニいう遅効性の毒でございます。これは、味も臭いもしないので、こうして茶などに入れてしまえば、簡単に飲ませられます」
 そう言うと、ルーアンは傍で給仕をしていたモーヴに茶の御代わりを求めた。実に美味い茶ですな、と、にっこり笑って。
「死霊石というと……あの、呪いの儀式に使うという、紫色の魔石のことだろうか?」
 ユウザは、図鑑で見た覚えのある、鳩羽紫の妖しい輝きを帯びた石を思い描いた。
 死霊石は、隣国のアンカシタンでしか産出されない珍しい魔石で、ユウザ自身、実物を見たことは一度もない。
 というのも、一見、装飾品にも相応しい美しい石なのだが、かつて、それを身につけた人々が次々に不審死を遂げたという暗い歴史があり、呪われた石、または、人を呪い殺す時に用いる如何わしい石として、現在は輸入そのものが禁じられているからだ。
「いかにも。死霊石は、魔石学的には呪術の道具とされておりますが、医学的見地からすると、立派な毒物でしてな。素手で触っただけでも健康を害するほど、強い毒性を秘めております。しかし、石を溶かして体内に摂取した場合、すぐには効かず、じわじわと時間をかけて心の臓を蝕むのです」
「その効き目が表れるまで、どのくらいかかるのだろう? 具体的な時間まで、割り出せるものだろうか?」
 それがわかれば、おのずと毒を飲まされた時刻も断定できると期待しながら、ユウザが尋ねると、ルーアンは静かに首を振った。
「残念ながら、死霊石の効果も、他の魔石同様、個体によって大きく異なります。極端な例ですと、毒が心臓に達するまで一〇年以上かかったという実験結果もございます。――ですが、ただ一つ、死霊石に限って言えるのは、どんなに効き目が早くても、死に至らしめるまでには、必ず半日はかかる、ということです」
 これ以上のことは、例え、死体を解剖してもわからない。せいぜい灰紫に染まった心臓を確認するのが関の山だという。
「……殺害方法から犯人を洗い出すのは極めて困難、ということか」
 吐息をついて、ユウザは書類を脇に寄せた。
 使われた薬物が禁制の毒では、入手経路の特定は、まず不可能だ。幾ら密輸の取締りを強化しても、監視の目を掻い潜って国内に持ち込まれる禁制品は、星の数ほどある。おまけに、服毒した時間が昨日の昼より前≠ナは、調べる範囲が広すぎて切りがない。
「……投獄された時には既に手遅れだったということは、もし、牢番が絶えず目を光らせていたとしても、あの三人を救うのは難しかったのだろうな……」
「いえ、そうとは限りませんぞ」
 ユウザの独り言のような呟きに、ルーアンはきらりと目を光らせた。
「中毒症状が表れた時点で、すぐに然るべき薬を与えれば、解毒は可能でございます」
 遺体の首筋に、いく筋もかきむしった痕が残っていたことから、彼らは即死ではなかったと推測されるという。苦しむ時間が長かったからこそ、治療が早ければ助けられたかもしれないのだ、と口惜[くちお]しそうに首を振る。
 やはり、近衛の怠慢は厳罰に値するようだ。
「……一つ、伺いたいのだが、毒が回るまでの時間が長かった場合――そうだな、仮に、実験と同じ、一〇年としようか。その場合、少しずつ体に不調が表れるのだろうか? それとも、きっかり一〇年後、何の前触れもなく、突然倒れる?」
 紅茶の御代わりを運んできたモーヴに、私は結構、と手振りで断りながら、ユウザは頭に浮かんだ問いを口にした。
 後学のためにも、もっと死霊石について詳しく知っておかねばならないと思った。今後も、敵が同じような手口で仕掛けてくることは、じゅうぶん考えられる。
 ルーアンは、手にした茶碗をゆっくり口に運んでから、そうですなぁ、と目を細めた。
「あくまで個体差はありますが、少なからず変調は見られます。動悸や息切れがしたり、発作を起こして倒れたり……まぁ、普通の心臓病と症状は似ておりますな」
「そうなると、病死か中毒死か、判断が難しいのでは?」
 ユウザが疑問をぶつけると、ルーアンは、良い質問だと言わんばかりに目を輝かせた。
「決め手は、臭いでございます」
 茶碗を揺らして、中身だけをくるくる器用に回しながら、老翁は続けた。
「死霊石は、まこと不思議な石でしてな。先ほども申しました通り、石自体には味も臭いもございませんが、体内に吸収され始めると、肌から、焼き菓子に使う香料のような、ひどく甘ったるい匂いが漂うようになるのです」
「なるほど。それで、検死だけでも、死霊石による毒殺だと断言できた訳だ」
 うなずいて、ユウザはふと、甘い香に包まれて亡くなったはずの、ヘンシェル・アマンを思った。安らかな匂いとは正反対の、喉に爪を食いこませるほど凄惨な死を――。
 気を取り直すように一瞬目を瞑り、ユウザは問いを重ねた。
「……ちなみに、死霊石の解毒薬とは?」
「葉樹石でございます。体から匂いを感じたら、すぐに薬湯にしてお飲み下さい。あれは、大抵の怪我や病気に効く万能薬でございますが、毒消しにもなりますゆえ」
 そう教えてくれてから、ルーアンは、正に医者要らずですよ、と、からから笑った。
「では、知らぬ間に一服盛られたとしても、注意していれば、助けられるな」
 ユウザは己が狙われた場合はもちろん、身近な誰かが被害に遭った時を考えて、ほっと胸を撫で下ろした。早速、サイファに一つ、葉樹石の指輪でも持たせておこう。
 そう思った時、ユウザは、父が母に贈った婚約指輪が葉樹石だったのも、同じ理由からではないかと感じた。
 奴隷だったセシリアを見初め、母親の猛反対をも押し切って、[][つま]に、と願ったアグディル。自分が傍にいられない間も、愛しい女を守れるようにと、命の石を渡した。
 いつも、どんな形でも、お前を守る。それが、婚姻の誓いだ、と。
 その時の父の気持ちが、今のユウザには良くわかった。
 羨ましい――と、心から思った。
 自分には決して真似できない、してはいけないことだと、苦しいほど、わかっているから……。
「――さて、私めは、そろそろ失礼いたしましょうかな」
 ユウザの沈黙を折りに、老医師はよっこらせと腰を上げた。こんな爺でも頼りに待っている患者がおりますので、と、おどけて笑う。
「お疲れのところ無理を言って、相すまなかった」
 見送りのため、ユウザも一緒に席を立った。
 明け方まで、外でもないクロエの看護をしてくれていたのだ。疲れていないはずがなかった。
「何を仰います。まだまだ、若いもんには負けませんぞ」
 心外だ、とばかりに、力こぶを作るふりなぞしてみせると、ルーアンは丁寧に暇を乞い、かくしゃくとした足取りで次の患者――クロエの元へと去って行った。
 神に[やいば]を向けるは、愚か者のなすこと。
 天に弓引く罪人など、[][つま][あら]ず――。
「……何処へなりとも捨て置け、か」
 ユウザは思わず冷笑をもらした。鬼のような女だな、と。
「全くです! いくら政略結婚とはいえ、とても夫婦の[えにし]を結んだ者の所業とは思えません!」
 憤懣も露わに、ナザルが赤い顔で吐き捨てる。
 事の顛末は、こうだ。
 昼前、ルーアン医師による検死が終わり、ヘンシェルの遺体を引き取りに来るよう、彼の屋敷へ伝えに行ったナザルは、門番の男に家人への取り次ぎを頼んだ。
 ひどく蒸し暑い日である。
 ずいぶん長いこと門外で待たされ、いいかげん苛立ちが募り始めた頃、ようやく男が引き返してきた。
 やれやれ。やっと面会が叶う、と安堵したのも束の間、男は感情のこもらない調子で、ヘンシェルの妻から持ち帰ったという伝言を告げた。
 皇家に仇なす不埒者など、自分の夫ではない。たった今、離縁した。よって、遺体を引き取る義理はない、と。
 まさかの門前払いである。
 あまりのことに、一瞬、呆気にとられたナザルだったが、こんな馬鹿な話をあっさり受け入れられる道理はなく、しつこく取り次ぎを迫った。
 しかし、何を言っても『奥様のご命令です。お帰り下さい』と繰り返されるばかり……。
 こうした押問答に、およそ半時ほど労したろうか。
 このままでは埒が明かないと諦め、ナザルは、ユウザの指示を仰ぐため、止むを得ず退散したのだった。
「――確か、朝のファルスの報告では、近衛が家人に遺体を引き渡そうとしていたのを留まらせたはずだったが……?」
 ふと思い出して、ユウザは首をかしげた。公務のために着替えた礼装が、ひどく重たく感じられる。
 脚に纏いつく金地の帯を払いながら、その者たちはどうした? と促すと、ナザルは哀しげに目を伏せた。
「あれは、ヘンシェルの妻が取り急ぎ差し向けた、葬儀屋の人間でした」
 引き取った遺体は屋敷へは運ばず、そのまま墓地へ埋葬するよう、指示を受けていたのだという。死者との別れを惜しむどころか、初めから葬儀すら行わないつもりだったのだ。
「何ということを……」
 そのあまりの冷酷さに、思わず絶句した。
 確かに、家同士が決めた、互いに愛のない結婚生活だったかも知れない。だが、人として、こんなにも非情に振る舞える夫人の気が知れなかった。
「……仕方がない。ヘンシェルの実家に連絡して、亡骸だけでも引き取らせろ。奴の父親は既に他界しているが、母親は健在だ。きっと悪いようにはしないだろう」
 胸を押しつぶされるような遣り切れなさをこらえつつ、ユウザはポンとナザルの肩を叩いた。情の厚い従兄が、どれほど心を尽くしてこの任にあたったかは、その憔悴した目を見なくとも、よくわかっていた。
「畏まりました」
 ナザルも悔しさを呑みこんだ顔でうなずき、今度はアマン本家への使いのため、再び部屋を後にした。
「……ヘンシェル様の奥方様は、エカリア本家の第五皇女様でらっしゃいますから、格下のアマン家へ嫁ぐ際は、それはそれは嫌がったと聞いております」
 ユウザが寝椅子に腰かけると、さっきまで、黙って傍に控えていたモーヴが、問わず語りに口を開いた。
 当時二十歳だったヘンシェルの元へ皇女が嫁いだのは、成人したての、十五の歳だった。
 その頃から、既に政界に大きな影響力のあったコルヴェート・ダルネより持ち込まれた縁談は、姫の父であるシュワル・エカリアにとっても益が多く、この話はとんとん拍子にまとまったという。
 しかし、誇り高きエカリアの姫として、幼いころから未来の皇帝へ嫁ぐべく教育を施されてきた皇女にとっては、寝耳に水だった。
 相手は、今をときめくコルヴェートの縁戚であっても、アマン家自体は、皇家の血筋としては自家より遥かに劣る。そんな家に――絶対に皇帝になれない男に嫁すということは、彼女がこれまで培ってきた己の存在意義を、根底から覆すことに他ならない。葛藤があったのは、当然であった。
 それでも、最後には親の説得を受け入れ、皇女は涙ながらに輿入れしたのだった。
 あれから、一〇年――。
「それが、今度は夫に謀反の疑いありとなれば、このように無慈悲なお振る舞いをなさるのも、ご実家の名誉を守るためには止むを得ないことなのかも知れませんね……」
 哀しいことではありますが、と穏やかに語り終えたモーヴは、最後の最後に、ぽつりと本音をもらした。第七皇女のエレミナ様も似たような気性をお持ちなのでしょうか、と。
「さあな」
 ユウザは軽く肩をすくめて、取り合わなかった。
 数名いる妃候補の中で、ほとんどエレミナ姫が内定している事実を、モーヴにだけは伝えてあった。それを聞いた時の彼の表情は、なぜだか強く記憶に残っている。
 さようでございますか、と静かに受け止めながらも、決してそんなことにはならない、否、させない、とでも言いたげな、妙に落ち着き払った、得体の知れない自信を感じさせる顔だった。
 しかし、モーヴにどんな予感があろうとも、皇帝の意志は絶対だ、とユウザは思っている。自分の婚姻に関しては、特に。
(ヘンシェルの死が、宮廷にどんな波紋を描くか……)
 ユウザは目を閉じ、しばし黙考した。
 真犯人が、ヘンシェルたち三人に予め死霊石を飲ませていたということは、自分への襲撃が成功しようが失敗しようが、初めから彼らを消すつもりだったということになる。それは、暗殺を企てた者としては妥当な判断である。
 だが、理解できないのは、櫓からの二度に渡る狙撃だった。
 塔に着く前、一寸、立ち止まった自分たちの足下に注がれた無数の矢は、ことごとく大地に突き刺さった。それを機に、待機していた隊員たちを動かした訳だが、今になって思えば、あれだけの矢が一本も標的を掠めなかったのは、あまりにも不自然である。
 最初から、足下を狙っていたとしか考えられない。まるで、これ以上、時計塔に近づくな、といわんばかりに。塔の内に、曲者が潜んでいる、と警告するかのように。
 かと思えば、二度目の狙撃では、間違いなく命をとりにきていた。サイファに突き飛ばされなければ、狙われていることにも気づけなかったほどだ。
(行動に一貫性がないのは、どういう訳だ?)
 見えない敵の正体は、やはり見えてこない。
 それから、もう一つ気になるのは、敵が、ここでも魔石を駆使していることだった。風の矢はもちろん、禁制の魔石まで持ち出してきた。
(炎舞石に死霊石……どちらも、アンカシタンが産地だが……)
 ルファーリに出入りしている魔石商と、何か関わりがあるのだろうか? もしくは、異国語で口論していたという、ならず者を装った、あの剣士たちと……。
 ユウザは目を開けると、柱時計を見やった。次の公務まで、わずかだが時間がある。
 ユウザは衣擦れの音高く立ち上がった。
「少し早いが、もう出る。クロエの部屋を覗いて、その足でイグラティオヌへ向かう」
 留守居のモーヴに行く先を告げ、足早に部屋を出る。
 一分、一秒が、限りなく惜しかった。
- 2012.11.26 -
NOVEL || HOME | BBS | MAIL