Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 69 話  [かみ]御許[みもと]
 侍医のルーアンが様子を見に訪れたのは、クロエが目を覚まして程なくのことだった。
 傷口の具合を確かめ、ふむふむ、と何やら独りで得心すると、一角獣の軟膏を、これでもかというくらい、たっぷり塗りつけ、新しい包帯できっちり覆った。それから、葉樹石の薬湯と血のように赤い丸薬、鬱金色の胡散臭い粉薬を飲ませたところで、ようやく治療が終わった。
「いくら最高級の葉樹石を飲んでいるとはいえ、さすが、日ごろから鍛えてらっしゃる方は、回復の早さが桁違いですな」
 診察鞄を片付けながら、ルーアンは感心したように何度もうなずいた。普通の文官ならば、こうはいきますまい。
「鍛えてる、って?」
 サイファがクロエを見やると、本人より先に老医師が応じた。
「おや、ご存じないか? クロエ殿は、都の剣術大会で二度も優勝したことのある、剣の達人ですぞ」
「え? それって、ユウザがスゥオルの称号を与えられたのと、同じ大会?」
「さよう。ちょうど三連続目の優勝がかかっていた年にユウザ様が初出場なされたため、惜しくもスゥオルの称は逃されたがな」
「それじゃあ、ほとんどスゥオルも同然じゃないか!」
 サイファは目を瞠った。こんなに優しげな風貌のクロエが、スゥオルに匹敵する剣豪だなんて、信じられない。
「いや。二連覇と三連覇では、優勝の重みが全く違う。一度目は偶然、二度目は強運。三度目に勝ってこそ、初めて実力と認められる。実際、私が優勝できた二年間は、出場者の力が拮抗していて、誰が勝ってもおかしくなかった。だから、三年目の初戦でユウザ様と当たり、あっけなく敗退した」
 クロエは、まるで他人事のように淡々と語った。その、あまりにもこだわりのない態度に、思わず意地悪な質問をしてみたくなった。
「スゥオルになり損ねて、悔しかった?」
 しかし、サイファのあからさまな問いにも、彼は静かに首を振っただけだった。
「実力が、それこそ桁違いだった。私は、一生かかってもユウザ様には敵わない」
 もちろん、クロエの言葉には多分に謙遜が含まれている。初戦で敗れたと言っても、本戦に出場するには、十数回に及ぶ予選を勝ち抜かなければならないのだから。
 だが、それだけの力量を持っている剣士に、負けて当然。悔しがることさえ滑稽だ、と言わしめるユウザの強さとは、一体、いか程のものなのか……?
「ユウザって、そんなに凄いの?」
 誰にともなく尋ねると、クロエもルーアンも、瞬時にうなずいた。
「ユウザ様と互角に戦えるのは、歴代のスゥオルの中でも、ほんの一握りしかいないだろう」
「いかにも。私は、物心ついた時から、毎年欠かさず大会を見てきたが、この七〇年で、スゥオルの称を得た者はたったの四人しかいない。その中でも、ユウザ様の強さは群を抜いていた」
 そう言って、ルーアンは懐かしむように目を細めた。今でも、ユウザ様とスゥオル・レイサン・ワイズの模範試合を思い出すと血が騒ぐ、と。
 ユウザが初めて剣術大会に出場し、ついでに一度目の優勝まで果たしたのは、今から五年前のことだという。
 当時、若干十三歳だった彼は、その身分を隠し、一剣士として予選に臨んだ。そして、一試合勝つ毎に注目を集め、本戦出場、準々決勝進出、準決勝快勝、やがて決勝へと駒を進めた時には、観衆から最も声援を送られる存在となっていた。
 雅な舞でも踊るような、軽やかな身ごなし。的確に急所を狙う、神速の太刀捌き。加えて、衆目を惹きつけて止まない、冷厳な美貌……。
 大会が開かれていた十日間というもの、観客は、この名もなき少年剣士に魅了されていた。対戦相手を冥界へ誘う死の美神に、誰もが酔い痴れた。
 その酔いを良い意味で醒ましたのは、決勝戦の後に行われた、優勝者とスゥオルによる模範試合だった。
 天覧試合でもある決勝戦は、ユウザが一瞬にして圧勝してしまったので、内容的に面白味に欠けた。そこで、急遽、賓客の一人として観戦していたスゥオル――レイサン・ワイズと手合わせすることになったのだ。
 岩山のような立派な巨体を誇るレイサンと、長躯とはいえ細身のユウザが対峙した時、会場中がレイサンの勝利を確信した。ましてや、この時、三十四歳だったスゥオル・レイサンは、剣士として最も脂が乗っていた時期でもあったのだ。
 だが、大方の予想に反して、若き挑戦者は、今大会で見せたどの試合よりも素晴らしい、スゥオルに引けを取らない戦いぶりを披露した。
 結局、制限時間内に勝負がつかなかったため、引き分けということになったが、後にレイサンは、あれ以上試合が長引けば、どう転んだかわからない、と真摯に語り、以後、一層稽古に励んだという。
「あの二人の試合は、本当に溜め息が出るほど美しかった。力強くて、華麗で、あれが真剣での立会いだったということを、思わず忘れてしまった」
 またいつか、あんな真剣勝負を見てみたいものだ、と締めくくったルーアン医師の瞳は、きらきらと輝き、夢見る少年のようだった。よほど剣術が好きらしい。
「一度スゥオルの称を得た者は、二度と大会には出られませんからね。早く、次のスゥオルが現れると良いのですが」
 同意したクロエの表情も、いつになく雄々しさを感じさせる。
 テラもそうだったが、男なら誰でも、並外れた強さに憧れを抱くものなのかもしれない。
 帝国屈指の強者には何の興味もわかないサイファだったが、スゥオルの称号を戴くことの難しさ、偉大さというものを、改めて理解したと思った。まだ、実感はできないけれど。
「そう言うクロエ殿こそ、もう一度、挑戦されてみてはいかがかな? あの年の大会は、ユウザ様とクロエ殿の初戦が実質の決勝戦だったと、私は記憶しておりますぞ」
「何を仰います。一度でも殿下と剣を交えた者なら尚のこと、己の才の無さは骨身に沁みております」
 苦笑いして、クロエはゆっくり頭を振った。もう二度と大会には出ません。
「それは残念だ」
 大きく眉根を寄せたルーアンは、まだ若いのに勿体ない、などと、ぶつぶつこぼしていたが、ふと思い出したように処方した薬について説明し始めた。そうして、一通り伝え終えると、老眼鏡を外して懐に仕舞う。
「とにかく、十分に体を休めて、無理はしないことですぞ。――では、私はこれで」
「あ、先生、ちょっと待って!」
 鞄を手にして腰を浮かせかけたルーアンを、サイファは慌てて引き止めた。
「疲れたでしょ? 一服していきなよ」
 美味しい花茶があるんだ、と支度にかかり始めたところを、今度はルーアンに制止される。
「いやいや。茶なら、先ほどスゥオル・ユウザリウスのお部屋で三杯もご馳走になったばかりでな」
 気持ちはありがたいが、これ以上は入らんよ、と眉尻を下げ、老翁は足の運びも軽やかに部屋を辞した。何とも元気な老人である。
「忙しいお爺ちゃんだなぁ」
 来た時と同様の慌しさで去って行ったルーアンを見送り、サイファがぼそりともらすと、クロエは低く笑った。
「飄々とした楽しいお方だが、ああ見えて、ルーアン様は医学界の重鎮でいらっしゃる」
 一家臣に過ぎない自分が、こうして皇帝陛下の主治医に診療してもらえるのも、ユウザ様のお陰だ、と殊勝に感謝の言葉を述べる。
 サイファは、ユウザとクロエの間にある、主従関係以外の結びつきについて、思いを巡らせた。かつて、真剣で斬り合った者同士は、どんな思いで、日夜顔を合わせているのだろう?
「あのさ……さっきの話だけど、初戦の相手がユウザだってわかった時、どんな気持ちだった?」
 顔色を窺いつつ尋ねると、彼は無表情に、特に何も、と即答した。
「何も? 主人の息子相手に、気まずくなかったのか?」
 信じられないと眉を持ち上げたサイファに対し、クロエは事も無げに答えた。
「あの頃は、まだ互いを認識していなかったからな」
 クロエがアグディルに仕えるようになった時には、ユウザは既にフラウ城で暮らしており、二人が直接顔を合わせることはなかったのだという。皇太子の秘書といっても、第三秘書の役割は、カレナ城内での裏方的な職務がほとんどだったからだ。
「それに、あの時、ユウザ様は偽名を使っておいでだったし、賞金目当ての荒くれ者ばかりが集う大会で、やんごとなき皇家のご子息が不正もなしに予選を勝ち上がれるなんて、思ってもみなかったのだ」
 お陰で遠慮なく皇太孫に斬りかかれた、と、くつくつ笑う。
「……スゥオルを諦めて、悔いはない?」
 先ほどのルーアンとの会話を思い出し、サイファはおずおずと訊いてみた。ユウザが出場できない今ならば、クロエが栄光を勝ち取るのも夢ではないのに……。
「最強の男がいない場で頂点に立ったところで、何の意味がある?」
 サイファの問いを問いで返し、クロエは嗤った。今の私には、スゥオルの称よりも、他に欲しいものがあるのだ、と。
「他のものって?」
「ある方と、ずっと手合わせしたいと願っている」
「それって……ユウザ?」
 雪辱でも狙ってんのか? と怪訝な顔をしたサイファを、まさか! と、一笑に付す。
「ユウザ様は雲上のお方。手を伸ばすだけ、時間の無駄だ。それより、私がお相手願いたいのは、グラハム・バリ様だ。あの方と、一度で良いから立ち会ってみたい」
「グラハムと? 何でまた……」
 つい先日、共に旅をした壮年の護衛を思い浮かべ、サイファは首をかしげた。
 確かに、グラハムは見た目にも強そうだし、形容しがたい気迫のようなものをまとってはいたけれど、彼が、どれほどの力を備えているのかは、正直、よくわからない。
「一度、グラハム様が実戦で剣を振るっていらっしゃるところを見たことがあるのだ」
 記憶をなぞるように、クロエは遠い目をした。五人もの相手を瞬く間にねじ伏せ、鬼のような強さだった、と熱のこもった口調で語る。
「ふーん……。あのグラハムがねぇ……」
 いつぞや、ユウザのことを剣の鬼′トばわりしていたグラハム自身が、鬼と称されるほどの剣豪だったなんて。
 クロエといい、グラハムといい、類は友を呼ぶというのは、本当らしい。
「でも、その望みなら、いつか実現しそうだね。グラハムが良いって言ってくれたら、すぐにも叶うもん」
 そのためにも早く怪我を治さないとな、とサイファが笑顔で返した時、扉が遠慮がちに叩かれた。
「はい?」
 返事をしながら応対に出ると――噂をすれば影。
 廊下に立っていたのは、神官装束に良く似た真珠色の長衣に、黄金の首飾りを下げたユウザだった。絹の艶やかな光沢と、眩い陽光を幾つも束ねたような繊細な金細工が、彼の端麗な顔立ちを、より一層きらめかせている。
 恐らく、神事のための衣装だろう。その、あまりに神々しい姿に、サイファは一瞬、言葉を失った。皇族が現人神と呼ばれる理由が、身に沁みてわかる。
 一方のユウザは、戸口に現れたサイファを見て、意外そうな顔をした。
「何だ、まだ付き添っていたのか」
 眼が赤いが、眠っていないのか? と、咎めるような声色になる。
「一晩くらい徹夜したって、どうってことないよ」
「よく言う。お前の場合、慢性的な睡眠不足だろうが」
 一寸、眉間[まゆあい]をしかめたユウザだったが、ところで、と声をひそめた。これから、まだ公務が控えているのだろうか、どこか気忙しげに問う。
「クロエの様子は?」
 サイファ越しに室内へ視線を投げると、こちらが答えるより早く、上体を起こしていたクロエの姿を認め、愁眉を開いた。
「もう起きられるのか?」
 笑みをたたえ、真っ直ぐ寝台へ歩み寄る。
 サイファはそっと扉を閉め、ユウザの後に続いた。
「調子は、どうだ?」
「お陰さまで、ルーアン先生に処方していただいた薬が効きまして、痛みはすっかり治まりました」
 クロエは、とても怪我人とは思えない端正な佇まいで答えた。ご迷惑をおかけし申し訳ございません、と丁寧にお辞儀を返す。
「何が迷惑なものか。あの時、そなたが駆けつけてくれなんだったら、今ごろ、こいつは墓の中だ。――なぁ?」
 言いながら、ユウザはぐいと無造作にサイファの肩を引き寄せた。不意を衝かれてよろけたところを、しっかりと彼の胸に抱かれて、思わず頬が熱くなる。
「誰が墓の中だっ――!」
 縁起でもない、と噛みつきかけて、サイファは台詞を飲みこんだ。
 思いがけず、ユウザの潤いを宿した瞳が、じっと自分を見下ろしていたからだった。言葉の軽さは表向きで、無事で良かった、と彼の眼差しが物語っている。
 その甘やかな空気に心地よくひたる反面、サイファは、にわかに背筋が寒くなるのを感じた。クロエに怪我を負わせてしまった、という罪悪感にばかり気をとられていたが、彼が身を挺して庇ってくれなければ、ユウザの言う通り、自分は確かに死んでいたのだった。
「クロエ、そなたには本当に感謝している」
 そう言って、ユウザは深々と[こうべ]を垂れた。そなたの働きには、どんなに感謝しても、感謝しつくせぬ、と。
「滅相もない」
 クロエは穏やかに、しかし、大きく首を横に振った。
「畏れながら、殿下は私を買い被っていらっしゃいます。私はただ、己の過失を補うのに必死だっただけです」
 そんなに恩に着られては決まりが悪うございます、と、にっこり笑う。
「――それより、昨夜はあれから、どうなりましたでしょうか?」
 この件はこれで終いだ、とばかりに話題を転じたクロエだったが、その質問は、そっくりそのまま、サイファが訊きたかったことでもあった。
 怪我をしたクロエと一緒に、すぐに屋敷に引っこんでしまったため、その後、捕えられたヘンシェルがどうしているのか、気になっていた。自分を裏切り、一体、どんな言い訳をしているのか?
「そのことだが……」
 ふと、ユウザの面持ちが沈鬱になった。
「あの後、近衛に身柄を引き渡したが、今朝方、三人とも牢の中で変死しているのが見つかった」
「えっ!?」
「何ですって!?」
 サイファとクロエの驚愕が重なった。
「死因は毒殺だった。先ほど、ルーアン殿に調べていただいてな。そのせいで、そなたの診療が遅くなってしまって、すまなかった」
「いえ、とんでもない。そんなことより……こう言っては何ですが、彼らが死ぬ前に、少しでも尋問できたのでしょうか?」
 クロエが、はばかり顔で問うた。それに対し、ユウザが短く首を振る。
「それぞれの言い分を聞いたに過ぎない」
 連行前に近衛の邪魔が入った、と忌々しげに吐き捨てる。
「もう一つの、櫓の方はいかがでした?」
「そちらも大した収穫は得られていない」
 八方塞だ、と苦笑して、ユウザは寝台の端に腰を下ろした。そして、膝の上で指を組みながら、こちらを見上げる。
「……大丈夫か?」
 ふいに声をかけられ、サイファは自分が押し黙ったまま呆然としていたことに気づいた。
「大丈夫……じゃない」
 頭が混乱していた。
 ヘンシェル・アマンが、死んだ。
 あの、女ったらしで、ちゃらんぽらんで、事あるごとにルドに小突かれていた、童顔の不良神官が。つい昨日まで、あんなにぴんぴんしていた、あの男が。
 あの、ヘンシェル・アマンが――。
「どうして……?」
 言いかけて、言葉が詰まった。代わりに、涙が溢れ出す。
 決して、好きな男ではなかった。あの男にまつわる良い思い出など、何一つない。
 でも、少なからず関わりのあった男が、こんなにも突然、世を去るなんて――。
 その時、目の前に綺麗な藤色の手巾が差し出された。気遣わしげな目をしたユウザが、こちらを見つめていた。
(手持ちがないなんて……絶対に嘘だ)
 昨夜の彼の所業を思い出し、複雑な気持ちになる。
 流れた涙の痕を遡るようにして寄せられた、ユウザの柔らかな唇。あの深刻な場面で、あんなことをするなんて不謹慎だ、と怒鳴りつけてしまったけれど、今思えば、彼の唇は微塵も邪な熱を孕んでいなかった。あれも、彼なりの優しさ――一種の労わりだったのだと思い当たり、再び涙腺が緩む。
「つらいだろうが、奴のことで、お前に少し聞きたいことがある。今、話せるか?」
「ん……平気」
 ありがとう、と受け取った手巾で目元を押さえ、サイファは深く息を吐いた。
「何が聞きたいの?」
「ヘンシェルが私を呼び出した理由だ。昨日のお前の口ぶりでは、用があったのは奴自身ではなさそうだったが……」
 包み隠さず話してくれ、と請われ、サイファは迷った。
 いくら亡くなっているとはいえ、ヘンシェルとの約束をすっかり破るのは気が引けた。しかも、本当に会いたがっていたのは、彼の妹で……。
「死者であっても、約束を違えるのは心苦しい――か?」
 こちらの心を読んだかのような時宜で口をはさんだのは、クロエだった。やっぱり、感性が似ているのかもしれない。
「死者との約束を守ることより、死者の無念を晴らすために力を尽くす方が、遺された家族にとっては大事だと思うが……」
 どうだろう? と、最終的には自分で判断するよう促される。
 死者の無念。遺族の――無念。
 それを思えば、結論を迷っている場合ではなく……。
「……ずっと、あんたに片思いしている妹がいたんだって――」
 サイファは、思い出せる限りをとつとつと語った。最後の方に聞いた、ユウザの色街通いのくだりをのぞいて。
「恋愛成就を祈願した白鷲の贈り主は、ヘンシェル・アマンの妹だった――という説には、無理があるな」
 全てを聞き終えてから、ユウザは独言のように呟いた。
「気鬱の妹どころか、奴にいるのは歳の離れた弟だけですからね」
 横からクロエが相槌を打つ。
「やっぱり……」
 全部嘘っぱちだったんだな、と落胆するサイファに、それはどうだろう、とユウザ自身が異を唱えた。
「妹はいないが、奴が妹も同然≠ノ思っていた誰かのために骨を折ったのは事実だろう。そして、その誰かに裏切られ、はめられ、消された。そうでなければ、あれほどあっさり捕まる理由が見つからない」
 昨夜、帝都防衛隊の隊員がヘンシェルを取り押さえた時、彼はあまりにも無防備だった。凶器はおろか、護身用の懐剣すらも携行していなかったのだ。
「案外、奴自身は、お前との約束を真面目に守るつもりだったのかもしれない」
 連行される間も、ヘンシェルは必死になって身の潔白を訴えたという。自分は殿下を塔にお連れするよう頼まれただけだ。あんな男たちは知らない、と弓矢を携えた二人組との関わりを最後まで否定し続けた。
「誰に頼まれたのかは、言わなかったのですか?」
「ああ。その点だけは、いくら問い詰めても口を割らなかった」
 クロエの質問に、ユウザは遣り切れない顔で答えた。
「恐らく、相手を庇ってのことだろう。そこが妹も同然≠ニ考えられるゆえんだ」
 神の直系を襲った逆賊という、この国で最も重い罪を着せられそうになりながら、それでもなお、守りたい人物とは誰だったのか?
 サイファは、ヘンシェルが見せた熱意の正体について、今一度思いを寄せた。
 いつも自分に見せていたにやけ顔とは明らかに違う真剣な表情は、彼が心から愛する者のために向けられた、真実の顔だったのではなかったか……?
「まぁ、あくまで憶測だがな」
 捜査を進めようにも手がかりがあまりに乏しい、とぼやいて、ユウザは寝台から腰を上げた。
「とりあえず、事情はわかった。また何か思い出したことがあったら、些細なことでもいいから聞かせてくれ。――静養中に長居して悪かったな」
 前半はサイファに、後半はクロエに声をかけると、彼はいささか重い足取りで部屋を出て行った。
 サイファはふと、その疲労をまとった背中を追いかけたい衝動に駆られた。人のことを寝不足だ何だと非難してくれたが、彼自身も徹夜していたのかもしれない。
(あいつ、ちゃんとご飯食べてるのかな?)
 閉ざされた扉を未練がましく見つめていたら、すぐ横でクロエのからかうような笑い声がした。
「今すぐにも、後を追いたそうな顔をしているな」
「……気のせいだろ」
 またしても考えを見ぬかれてしまった気まずさを押し隠し、サイファは憎まれ口で応酬した。エリスにも言われたことだが、自分には感情を面に出さない訓練が必要だ。
「……サイファ、お前に確認しておきたいことがある」
 クロエの調子が、急に改まった。
「先ほどは、殿下の手前、口にしなかったが、昨夜、命を狙われただろう?」
 唐突な指摘に、サイファは思わず黙りこんだ。しかし、彼は構わず続けた。
「殿下は、ご自身を――新皇太子を狙った矢が運悪く∴れてたまたま%ッ行していたお前の元へ飛んだ、と思われていらっしゃるようだが、あの矢の軌道は、初めから、お前を目指していたのではないか?」
「……うん」
 サイファは素直に認めた。本当は、ユウザに余計な心配をかけさせたくなくて、隠しておくつもりだった。けれど、自ら矢面に飛びこんでくれたクロエに、下手な嘘は通じないと思った。
 やはりな、と小さくうなずいて、クロエは腕組みした。
「襲ってきた相手に、心当たりはないのか?」
「うーん……」
 うなりながら、サイファは宙の一点を見すえた。
「あるような、ないような……」
 人から恨みを買う覚えはない、と断言したいところだが、存外、自分に敵が多いことに思い至る。ルドに怪我させられた男たちや、彼女が現れるまで、ハシリスの寵を得ていたT種だとか……。
「だが、具体的な人物までは浮かばない――ということだな?」
「うん」
「とすれば、お前が襲われたのは、ユウザ様の女官になったからだろうな」
「え? 何で?」
 サイファは目を瞬かせた。自分がユウザの従者になったところで、なぜ命を狙われるのか?
「考えてもみろ。そもそも、ヘンシェルは、お前がユウザ様の奥侍女になったと知って近づいてきたのだろう? そして、殿下一人を連れ出すのが不安なら、お前もついてくれば良い、と妥協してみせた。それは、言い換えれば、お前も一緒におびき寄せたかった、ともとれる」
 その動機こそが問題なのだが、と独り言ち、クロエは考えこむような目をサイファへ向けた。
「最近――女官になってから、お前の身の回りで、何か変わったことはなかったか? 例えば、陛下に何か頼まれたとか、誰かと新たに知り合ったとか……」
 言われて、真っ先に脳裏に浮かんだのは、宴席で歌えというハシリスの特命と、エレミナ姫の花のような美貌だった。
(でも、このことは極秘だし……)
 セシリアやエリスと親交の深いモーヴにだけは打ち明けたが、ユウザに近しいクロエには口が裂けても言えない。
 それに、自分は――。
「特に、変わったことはないと思う」
 サイファは、きっぱり否定してみせた。
「第一、ユウザに危害が及ぶようなことに、陛下が、あたしを近づけるはずがないよ」
 ハシリスを信じている。そして、彼らが互いに寄せ合う、愛情の深さを信じたい。
「……だと良いが」
 意味ありげに呟いて、クロエは口の端に淡い憫笑をのせた。陛下が心から大切にされている方は、たった一人しかいないからな、と。
「ユウザは愛されてない、って言うのか?」
 サイファは不服も露わに言い返した。
「そこまでは言わない。だが、注がれる愛情の量が量れるとしたら、ユウザ様もアグディル様も、あの方には遠く及ばない」
 それは宮廷に関わる者なら誰もが認める、客観的事実であった。
 ハシリスが、継嗣であるアグディルよりも、第二皇子のバスティルを盲愛している、ということは――。
「……とにかく、これから先もユウザ様のお傍に居たいのなら、これまで以上に身の回りに気を配ることだな」
 クロエの忠告に、サイファは無言でうなずいた。
 触らぬ神に崇りなし――。
 これが、神の御許に近づくことの代償なのだと思った。
- 2013.01.01 -
NOVEL || HOME | BBS | MAIL