Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 70 話  [いも]面影[おもかげ]
 御簾越しに映る朧な視界を、煌びやかな衣装を纏った臣民が幾人も過ぎていく。
 こちらに一礼してひざまずき、手を合わせ、目を伏せたまま立ち上がり、また一礼……。 
 拝む人間が違うだけで、延々、同じ所作が繰り返される。
 ここ、イグラティオヌ神殿での祭礼が始まってから、既に三時間あまりが過ぎていた。
 その[かん]、ユウザは不謹慎であると心得ながらも、意識の全てを儀式とは無関係な思考に充てていた。そして実際、それが適う状況でもあった。
 この国の神事における皇族の役割は、主に二つに分かれている。
 一つは、神官として神々へ祈りを捧げ、祭事を取り仕切ること。そして、もう一つは、自身が神として崇め奉られる≠アとである。
 この[あき]つ神≠ニ神に仕える徒人[ただびと]≠ニの境界は、極めて明瞭だ。
 現人神である皇帝と、その名代を許される皇太子。この二人だけが、主神ソルティマから託宣を賜る覡であると同時に、存在そのものが信仰の対象とされる。
 現在、皇位継承権第二位であり、神職の長でもあるバスティルとて、例外なく、一神官に過ぎない。それほど、皇位は尊ばれる。
 とはいえ、庶民から見れば、皇族は皆、神の末裔。このような厳格な線引きにこだわっているのは、一族内の秩序を保つために他ならない。
 だが、その線引きこそが、争いの種となっているのも事実で……。
(全く、生き神なんぞになりたいと願う輩の気が知れん)
 ハシリスの代理で生ける神像≠ニ化したユウザは、御簾の外で熱心に祈っている参拝者に[]取られぬよう、静かに吐息をもらした。
 ユウザの立太子は、既に民衆の知るところとなっているが、慣例を無視して大々的なお披露目を行わなかったため、例え御簾越しであっても新しい皇太子を一目見ようと、参拝希望者がいつもの三倍以上詰めかけているという。お陰で、二時間ほどで終わると踏んでいた予定が、大幅に狂っていた。
(……まぁ、あとは狸の宴会に付き合わされるだけだし、問題はないか)
 この後の予定が、珍しく晩餐会しかないことが幸いした。
 ユウザは静かに瞑目し、黙考に戻った。
 頭を占めているのは、アグディルの暗殺未遂に端を発する、一連の事件についてだ。
 父を襲った犯人と唯一つながりのありそうだった、ヘンシェル・アマン。
 あくまで、彼を取り巻く環境がそう推理させただけで、何ら確証もなかったのに、まるでこちらの動きを牽制するかのように殺害された。それは即ち、彼が何かしら事件に関わっていたという証のように思われてならない。
 アグディルの襲撃に際して、ヘンシェルは一体どんな役割を担ったのか? 誰が、彼を殺したのか?
(……奴を消すことで、得をする者は誰だ?)
 ソルヴァイユの神官で、ダルネ家ともエカリア家とも[ゆかり]があり、おまけに宝物庫係にまで関わりのあった彼は、真犯人にとって恰好の目くらましだったはずだ。
 背後に、ソルヴァイユ神殿があり、ダルネ家があり、エカリア家がある。一見して、どの勢力が黒幕であってもおかしくないが、それゆえ、下手に手を出せば内乱になりかねない危険を孕んでいる。
 だが、それも、犯人の正体が明らかになれば、話は別だ。
 互いが互いの隙を狙っている状況下において、同族の不始末は、一族全体の命取りになりかねない。ましてや、皇家に弓引くは、国家反逆の大罪。敵にとっては、合法的に相手を叩き潰す絶好の機会となる。
 今ごろ宮廷では、ヘンシェルが犯した罪と、その末路について、噂が矢のように飛び交っているに違いない。彼の舅であるシュワル・エカリアはもちろん、再従兄弟のコルヴェート・ダルネも無傷では済むまい。
 となると、単純に考えて、この状況を一番好ましく思うはずなのは――。
(……ラシオン家)
 元々、宮人の一門に過ぎなかったラシオン家は、初代皇帝イグラットの第二皇女が降嫁したことによって準皇族となり、それから数代を経た後、直系の皇子との婚姻を成立させることで皇族の地位を得た。
 それが、五大公家と呼ばれるほどの力を持つまでになったのは、彼らの政治手腕が長けていたことと、神の血が人と見なされぬ程度に巧みな縁戚関係を結んでいった結果である。現在、彼らの遠縁には、宮人はもちろん、商人や大農場を営む農人までいると聞く。
 とはいえ、エカリアやダルネのような名門を蹴落としたところで、二流と見なされているラシオンが皇帝の地位に就くことは難しい。
 イグラット皇家において、何よりも重視されるのは純粋な血≠ナあり、彼ら一族がどれほど優秀であり続けても、今までに一度も皇帝を輩出したことはないのだ。
 もっとも、父のアグディルのように、酔狂な皇太子がラシオン家の皇女を娶ることがあれば、ラシオン一世£a生も有り得ない話ではないが、少なくとも半神と侮られているユウザの代では起こり得ない奇跡である。
(ラシオンの謀か、それとも、エカリアとダルネの内輪揉めか……)
 現時点では、とても正しい判断など下せそうにない。
(もっと、ヘンシェルの人間関係を洗わなければ……)
 そんなことを考えていた時、突然、御簾の外でガシャリと大きな音がした。その、石の床に硬い金属がぶち当たったような――ちょうど長剣を取り落としたような響きに、ユウザは閉ざしていた目をかっと見開き、瞬時に腰の得物に手を伸ばした。
 しかし、すぐに音の正体がわかり、緊張を[]く。目前の床に転がっていたのは、歩行を補助するための金属製の杖だった。
 ほっと息を[]き、その持ち主に目を転じると――。
(リゼリナ!?)
 思いもかけない人物が、こちらに向かって拝跪[はいき]しているのが目に入り、ユウザは息を呑んだ。
 小さな面貌を覆う、濡れ羽色の長い髪。笑みの形を保った、真紅の唇。そして、三年前と少しも変わらない、挑むような灰色の眼差し。
『私は、しばらく国を出ます。いつか、殿下のお役に立てる日が参りましたら、再びお目にかかりましょう』
 女の、艶のある甘い声音が耳に蘇った。そして……。
 過去の苦い記憶が溢れそうになり、ユウザは振り切るように瞼を閉ざした。歓楽街の喧騒と脂粉の香が、幻のように纏いつく。
(私が太子に立ったと知って、会いに来たのか……?)
 コツリ、コツリ、と杖をつく足音が遠のく気配で、ユウザは我に返った。乱暴なほど勢い良く、御簾を払い上げる。
 しかし、その時には既に、突如姿を現した麗しき男神を前に、次の参拝者が射すくめられたように立ち尽くしているだけだった。
 自室に戻ると、思いがけない来客が、ユウザの帰りを待ち侘びていた。
「ユウザ様――」
 ナザルの耳打ちを受け、訪ねてきた相手に視線を当てると、客は自ら立ち上がった。
「お初にお目にかかります。アマン家当主、メルマール・アマンと申します」
 神官の印である焦げ茶の長い三つ編みを肩に垂らした青年は、こちらと目を合わすことなく一礼すると、静かに拝跪し、伏し目がちのまま立ち上がった。まるで、ついさっきまで民衆がしていたのと同じように。
「ここはイグラティオヌではないぞ」
 そう畏まることはない、と苦笑して、ユウザは客に座るよう促した。メルマールが恐縮した様子でかけるのを待ってから、さて、と口を切る。
「まずは、こたびのご不幸、謹んでお悔やみ申し上げる」
 深く一礼すると、メルマールは、恐れ入ります、と粛々と礼を返した。そして、初めて正面からユウザの顔を見て、淡く笑んだ。
「本日は、殿下にお礼を申し上げたくて、ご迷惑とは存じましたが、こうしてお部屋で待たせていただきました」
 罪人として晒し首にされてもおかしくないヘンシェルの遺体を実家で引き取らせてもらえることになり、非常に感謝している。そう丁寧に謝辞を述べた青年の、色艶の良い卵型の顔が、何とも幼げに見える。
「アマン家の当主と名乗られたが……そなたは、ヘンシェル・アマンの弟君であろう?」
 今回の件で、早速、家督を継がれたか? と、ざっくばらんに尋ねると、彼は意に介した風もなく、いえ、と[かぶり]を振った。
「私は、今から一〇年前、兄がエカリア家の姫君と結婚したその日に家長となりました。ヘンシェルは婿に出したも同然、というのが、両親の考えでしたので。……とはいえ、たった八歳の子供に何が出来るでもなく、名ばかりの当主でございましたが」
「なるほど。だが、一〇年も一家を取り仕切ってきた今となっては、もう立派な家長だ」
 ユウザはきっぱりと退路を断ってから、メルマールを見すえた。
「率直に訊く。そなたの兄が、なぜ、あのような愚行に及んだのか、心当たりは?」
「……いえ」
 うつむき、言葉を濁す若き当主に、更に畳みかける。
「いくら未遂であっても、皇太子に矢を射かけたは事実。例え本人が自害しても、その罪が消えることはない。慣例に倣えば、皇籍の剥奪と家門の取り潰しだ」
 最後の一言[いちごん]に、メルマールははっとしたように顔を上げた。
「――だが、もし、ヘンシェルの行動が己の意志ではなく、何者かに利用された結果だとしたら、寛大な処置を検討するにやぶさかではない」
 だから、知り[]ることを包み隠さず述べよ、と目で圧する。
 皇家に叛するという大罪を犯した一族が辿る末路は、筆舌に尽くし難いほど凄惨を極める。この提案がいかに恩情ある計らいかは、言うに及ばなかった。
「……畏れ多うございます」
 苦渋に覆われた面をそっと下げ、メルマールは合掌した。そして、再び上を向いた時には、一族の命運を握る族長の顔になっていた。
「弟の私の口から言うのもはばかられますが、兄には、謀反を起こしてまで世の中を変えようとする義侠心も、立身を望むような野心もありませんでした。ですから、兄が率先して殿下のお命を狙うようなことは、絶対にないと思います」
 兄に良く似た童顔に騙されそうになるが、ユウザと同じ十八歳という若さながら一門を束ねてきたメルマールは、決してお飾りの当主ではなかったようだ。兄のヘンシェルよりも、ずっと[ろう]たけている。
「では、そんな男が、自らの命を賭してまで守りたいと願う人物は?」
「え?」
 ユウザの問いが予想外だったのか、彼は戸惑うような素顔に戻った。
「ヘンシェルは妹も同然≠ニ思っている誰かを庇っていた節がある。それが一体誰なのか、見当もつかないか?」
「妹……ですか……」
 考えこむように口中で繰り返しながら、メルマールは額に手を宛がった。しばらくそのままの姿勢でいたが、やがて、観念したように口を開く。
「妹か恋人かはわかりませんが、兄が、夫人以外の女性[にょしょう]に心を奪われていたのは、確かだと思います」
 そう言って、彼は気弱げに目を伏せた。
「兄夫婦の仲は冷え切っていました。いや、冷えるも何も、もともと、エカリア家と血縁を結ぶためだけの結婚でしたから、初めから愛情などなかったのでしょう」
 結婚後間もなく、ヘンシェルは夫人と暮らす新居ではなく、アマン家の別邸で寝泊りするようになった。そして、人目を忍ぶこともなく、数多の女性を屋敷に引き入れていたのだという。
「このような状態では、当然、夫婦の[かすがい]となるべき子供は望めませんでした。義姉上[あねうえ]のお怒りはごもっともです。しかし、二、三年ほど前でしたでしょうか、兄の派手な女遊びが、ぱたりと止んだのです……」
 不審に思って、それとなくヘンシェルに尋ねると、彼は、らしくもない切なげな表情で答えた。あの人ともっと早くに出会えていれば、自分の人生は全く違ったものとなっていただろう、と――。
「その時の兄の口ぶりでは、相手の方にもご主人がいるようでした。それから……」
 メルマールは歯切れ悪く口ごもりながら、ぼそりと付け足した。お嬢様も、と。
「妹≠ヘ、愛した女の娘=\―か」
 ユウザは一筋の光明を見出した気がした。ヘンシェルの女性関係を丁寧に探っていけば、その娘にも辿り着けそうだ。
「メルマール殿、もう一つ尋ねたい。兄上と共に亡くなった二人の男に、見覚えはなかっただろうか?」
 ヘンシェルと違い、身元不明の彼らの亡骸には引き取り手が無かった。一応、人相書きを作り、広く情報提供を求める手配はしてあるが、今のところ芳しい報告はない。
「……実は、どこかで見たような気がいたします」
「誠か!?」
「はい。ただ……」
 喜んだのも束の間、メルマールは情けない顔で続けた。いつ、どこで見たのか、思い出せないのです、と。
「……そうか」
 落胆を押し隠し、ユウザはクシャリと前髪を掻き揚げた。
 メルマールを責めることはできなかった。人間の記憶ほどあやふやで、頼りないものもない。
「アマン家の処遇については、完全に調べがつくまで保留にするよう議会に申し渡すゆえ、しばらくは自重せよ。決して、悪いようにはしない」
 それから、例の男たちを思い出すことができたら必ず報せるように、と強く念押しし、ユウザはメルマールを下がらせた。
 ようやく、進むべき方向が見えてきた。この道を見失わぬよう、慎重に事を運ばねばならない。
「やりましたね、ユウザ様! 今日から、ヘンシェルの周辺を当たらせましょう!」
 やっと得られた手がかりに、ナザルは昂奮を隠しきれない面持ちで腕まくりした。
「ああ、頼む。それから――」
 ユウザは溜息混じりに命じた。リゼリナ・ショバラムの逮捕を、と。
「え? あの、千紫楼[せんしろう]の芸妓ですか?」
 ナザルは目を丸くした。
「あの女は、国外へ逃亡したはずでは?」
「そうだ。だが、今日のイグラティオヌの祭礼に姿を見せた」
 儀礼用の重たい長衣を脱ぎながら、ユウザは眉を寄せた。あまりにも色々な出来事が重なりすぎて、頭がどうにかなりそうだった。
「せっかく逃げ遂せたのに、なぜ、わざわざ戻ってきたのでしょう?」
「知るか。そんなもの、捕らえて吐かせろ」
 ナザルに当たるのは筋違いとわかっていながら、つい尖った口調になった。
 主の不機嫌の意味を悟ったようで、ナザルは、そうですね、と大人しく口をつぐんだ。それから、こちらを気遣うように、ファルス隊長に会ってきます、と言い残して、静かに退室した。
 急に、着替えるのも億劫になって、ユウザは中途半端に[ほど]いた礼装のまま、寝椅子に体を横たえた。
 リゼリナ・ショバラム――。
 その名を思い出すだけで、胸の内が自責の念で満たされた。かつての己の未熟さと浅慮を、一晩中でもなじりたくなる。
 彼女は、ユウザが帝都防衛隊の隊長として刑事事件を捜査していた際、唯一、捕縛し損ねた殺人犯だった。
 それは、三年前に遡る。
 当時、ユウザ率いる帝都防衛隊は、ある大商人の不正を追っていた。名を、エスピア・ノロバという。
 ノロバは、鬼畜と呼ぶに相応しい、正真正銘の悪党だった。金の力に物を言わせて皇族を抱きこみ、ありとあらゆる平民の女を隷属させては遊郭や異国の人買いに売り飛ばし、巨額の――穢れた富を築き上げていた。
 ノロバのあくどい所業は誰の目にも黒と映ったが、狡猾な男は立件できるだけの証拠を一切残さなかった。
 何とか尻尾を掴もうと、潜入も試みたが、用心深いノロバに近づくことは適わず、帝都防衛隊が捜査に乗り出してからも、被害者は増す一方だった。
 これ以上、罪のない女たちを不幸な目に遭わせるくらいなら、いっそ、捜査中の事故にでも見せかけて、ノロバを私刑にした方が世のためではないか、とまで、ユウザが思いつめた時だった。
 とある芸妓が、囮捜査を提案してきた。
 帝都の遊里で一二を争う売れっ子の自分がノロバに借金を申し入れれば、奴は必ず奴隷契約を結ばせようとするだろう。零落したとはいえ、宮人である自分を、商人であるノロバが金で買うのはご法度だ。そこを現行犯逮捕すれば良い、と。
 この芸妓こそが、都内一の大店、千紫楼の一枚看板――リゼリナ・ショバラムだった。
 その当時、聞き込みや張り込みで、何かと千紫楼を拠点にすることが多かった帝都防衛隊は、快く捜査に協力してくれた店の女主人を始め、そこで働く芸妓や娼妓とも、いつしか顔なじみになっていた。
 特に、宮人という高貴な生まれながら、芸妓に身を落とさねばならなかったリゼリナとは、同じ伎芸をたしなむ者同士、話が合った。
『私、舞の中では白鳳≠ェ一番好きですわ』
 大らかに手を伸ばし、高らかに跳躍していると、自分が鳥になった気がする、と言って、リゼリナは笑った。
『お前が白鳳を? あれは男舞だろう』
 いぶかるユウザに、彼女は茶目っ気たっぷりに答えた。女だって、いつもなよなよとした女舞だけでは物足りないのですよ、と。
『そういうものか?』
『そういうものです』
 部下が報告に来るのを待つ間に彼女と交わす短い舞楽談議は、職務でささくれ立ったユウザの心を潤してもくれた。
 もっと正直に言うなら、八つ年上の雅やかで美しいリゼリナに、友情以上の感情――憧れのような淡い恋情を抱いていた。そのことを、恐らく彼女は気づいていただろう。
 そうと知りながらのリゼリナの囮志願は、ユウザを一層悩ませた。彼女の言う通り、宮人であるリゼリナを金の力で隷属させたならば、奴隷を金で買うことは許さない、というこの国の掟に抵触するため、確実に逮捕できる。
 しかし、危険を伴う囮捜査に、一般市民を――リゼリナを巻きこむのは、ためらわれた。
 もっと他に、方法はないのか?
 苦悩するユウザを無理やり実行に駆り立てることになったのは、外でもないリゼリナの先走りだった。置手紙一つ残して、彼女は単独でノロバに会いに行ってしまった。
 そして、思惑通りには事が運ばず、ノロバに捕らえられた。
 だが、リゼリナ自身は、己が囚われの身になることも作戦の内だったのだ。自分がノロバの屋敷で監禁されれば、行方不明になった芸妓の捜索という大義のもと、帝都防衛隊が堂々と乗り込めるはずだ、と。
 確かに、彼女の計算は正しかった。ユウザが隊を引き連れて、ノロバを取り囲んだところまでは――。
『帝都防衛隊長殿は、何か勘違いをなさっておいでのようだ』
 ユウザの長剣を喉元に突きつけられながら、ノロバは余裕の笑みを浮かべた。自分が今、こうして芸妓を見張っているのは、彼女をT種にと望む、ある皇族に頼まれたからだ、と、ぬけぬけと言い放ったのだ。
 証拠は? と問いつめると、ノロバは待ってましたとばかりに、一枚の念書を出してきた。間違いなく、皇族の一門――ダルネ家の紋章が捺印された、公式の委任状だった。
 これでは、手も足も出ない……。
 悔しさに歯噛みしながらも、ノロバを解放せざるを得なかった、その瞬間――。
 ノロバの首に、背後からキラリと光る糸が巻きついたかと思うと、ギリギリと激しく肉に食いこみ、勢い良く血飛沫が上がった。
 正に、一瞬の出来事だった。
 その糸が琴の弦で、両端を握って力任せに引き絞っているのがリゼリナだと気づいた時には、ノロバの首はガクリと後ろに倒れていた。一目で、絶命しているのがわかった。
 茫然自失のユウザに、リゼリナは微笑みさえしながら、ゆったりと歩み寄った。
『この男を、生かしておいてはなりません。この[けだもの]が神狩り≠フ獲物に選ばれるのを待っていたら、都から一人残らず女人が消えてしまいますもの』
 光の加減で銀色にも見える澄んだ灰色の双眸が、真っ直ぐにユウザを見すえていた。ともすれば、男を挑発しているようにも思える、激しく、熱を帯びた眼差しだった。
『……神々の狩りに、人が口を出すものではない……』
 辛うじて返した言葉は、酷く弱々しく響いた。鉛の玉でも飲まされたように、胸がつかえた。
『……そうですわね。人間の女が、分不相応な夢を見て、出すぎた真似をいたしました。愚か者の世迷言と、お捨て置き下さいませ』
 素直に非を認めつつも、リゼリナは目を細めた。自分がしたことを、少しも悔いていない顔だった。
 ユウザは、いざとなったら[おの]が手でノロバを始末しようと思っていたにもかかわらず、リゼリナが彼を殺めたことが、耐え難く許し難かった。己の至らなさを、まざまざと見せつけられた格好になったからかもしれない。
 リゼリナが、公人であるユウザの立場を慮り、代わりに泥を被ったのは明白だった。いつの間にか、自分の存在が、彼女をそこまで追いつめていたのだ。
 とまれ、自分のために罪を犯したリゼリナを、ユウザは自らの手で逮捕しなくてはならなかった。いくら相手が極悪非道な人非人[にんぴにん]であっても、罪を裁くのは法であり、神々の意思であった。
『……リゼリナ・ショバラム。お前を、殺人の現行犯で逮捕しなければならない』
 口にしたそばから、自分が何を言っているのか、わからなくなった。
 なぜ、命がけで捜査に尽力してくれた彼女に、縄をかけねばならないのか? 本当の罪人は、宮廷という安全な柵の内で、のうのうと惰眠を貪っているというのに……。
 あまりに強烈な不快感が、喉元までせり上がってきた。
 苦しい。辛い。こんなに苦しくて辛いことは、嫌だ――。
 聞き分けのない駄々っ子のような本音が、ぐるぐると脳内を駆け巡った。何とかして、リゼリナを救いたいと切望している自分自身から、目を逸らそうと必死だった。
 そんなユウザの葛藤など、お見通しだったのだろう。リゼリナは、それには及びません、と不遜なほど妖艶に笑ってみせた。
『私は、しばらく国を出ます。いつか、殿下のお役に立てる日が参りましたら、再びお目にかかりましょう』
 ふいに、笑顔が近づいた、と思った。あんまり近すぎて、輪郭がぼやけた。
『それまで、どうぞ健やかに。愛しい、我が君――』
 拒む間もなく、ふさがれた唇。首に絡みついた、柔らかな諸腕……。
 五感がリゼリナを記憶した途端、彼女はするりと身を翻し、軽業師のごとき身ごなしで塀を飛び越えた。舞の名手の、華麗なる脱走劇だった。
 ユウザは、一応は捜索を命じたものの、積極的な追討は行わなかった。同時に非常線も張っていたが、うまく国外へ逃れられたと見え、リゼリナに関する目撃情報は全く入ってこなかった。
 永遠に、身を潜めていれば良いと思っていた。このまま、ひっそりと、何の問題も起こさず、慎ましやかに天寿を全うすれば良い。
 その後、ユウザは意図的に、この一件を頭から締め出した。加えて、容赦なく流れてくれる歳月のおかげで、古傷から血がにじみ出すことは珍しくなっていた。
 事件は、着実に風化していた。
 それなのに、なぜ、今になって危険な国内に舞い戻ってきたのか……?
(再び私の役に立つなどと、本気で思っているのか……?)
 愚かなことを、と一笑に付したかったが、できなかった。
 彼女が、杖をついて現れたのも気にかかった。
 御簾を隔てたユウザの気を引くため、わざと杖を落としたのだろうが、彼女の足が、本当に不自由だったかどうかは、確信が持てない。
「もう、三年……まだ、三年……」
 呟いて、ユウザは目を閉じた。
 無性に、サイファに会いたくなった。
- 2013.03.26 -
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