Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 72 話  金色[こんじき]夢魔[むま]
「――何が、一秒たりとも眠れない、だ」
 腕の中で、すやすやと寝息を立てているサイファを見下ろしながら、ユウザは長大息をこぼした。嘘つきはお前だろう、と独り毒づく。
 強引にサイファを抱きかかえ、寝たふりを決めこんでから、半時あまり。
 初めの内こそ、もぞもぞと落ち着かなさげにしていた彼女だったが、程なく、深い眠りに落ちてくれた。
 皮肉にも、ここ数日の寝不足が幸いしたようだ。寝返りどころか、身じろぎ一つせず、大人しく腕に収まっている。
(……まぁ、熟睡している分には問題ないか)
 こうして、静かに眠るサイファを抱いていると、それだけで、肉欲とは無縁の、穏やかな幸福に包まれた。
 この可愛い寝顔を、いつまでも眺めていたい。そんな埒もない願いが、頭を過ぎる。
(本末転倒だな)
 ユウザは苦笑した。自分が何のためにサイファを呼んだのか、本来の目的も忘れて和みそうになる。
(――さて、今宵も[じゃ]が出るか、それとも鬼のお出ましか)
 眼前に見えるサイファのつむじに、そっと口づけて、ユウザは燭台で揺れるか細い炎に目を転じた。
 サイファと一晩中、同じ室内で過ごすということが、己の心身にどれほどの負荷をかけるかは、先達ての船旅で、骨身に沁みている。
 それなのに、ユウザを、このような無謀な策へと走らせたのには、理由がある。
 夕方、晩餐に向かう前のことだった。
 自室で身支度を整えていたユウザの元へ、思いも寄らない来訪者があった。
『クロエ!』
『お忙しい時間に、申し訳ありません……』
 絶対安静の体を引きずってまで現れた秘書官は、急ぎ殿下のお耳に入れたいことがございます、と荒い息の中で申し述べた。
 それが、サイファの身に起こりつつある、いくつかの異変だった。
 一つは、昨夜の櫓からの狙撃が、皇太子ではなく、サイファを狙ったものだった、ということ。そして、もう一つが、彼女が酷い不眠に悩まされているらしい、というものである。
『……そういうことか』
 あの時、櫓から放たれた矢に逸早く気づいたサイファは、当然、標的は皇太子だと思いこんだ。だから、ファルスともども助けようと、安全圏まで突き飛ばしてくれたのだ。
 だが、結果的に、その行為が誤解を生んだ。
 櫓の狙撃者の目的が、初めから、ユウザに曲者の存在を報せること≠ニサイファを討ち取ること≠フ二つ≠ナあったなら、その行動に矛盾はない。
 恐らく、ヘンシェルをはめ、ユウザを襲わせようとする輩と、それを阻止しつつ、サイファの命を狙った者との、二つの異なる意図が同時に進行していたと考えられる。
 そうなると、新たに疑問に思うのは、なぜ皇太子である自分ではなく、奴隷に過ぎないサイファを殺そうとしたかだが、差し当たって、思い当たる節はなかった。広い意味での、自分の巻き添えなのだろう。
『よく報せてくれた。あの娘のことだから、自分の口から、護ってくれ、とは言わぬだろう』
『はい。自分が狙われたことに気づいておりましたが、殿下にご迷惑をおかけすることを恐れて、己の胸にしまっておくつもりだったようです』
『全く……』
 どこまで、人を頼らないつもりなのか。たくましいにも程がある。
『クロエよ、あの娘には、これからも、それとなく気を配ってもらえると助かる』
『承知しました』
『それから、不眠のことだが……そんなに深刻なのか?』
 疲れた顔をしているのは気になっていたが、彼女のあっけらかんとした口ぶりからは、さほどの緊張感は得られなかったのだが……。
『うなされている様子を見ましたが、あの苦しみようは尋常ではありませんでした』
 ユウザの思惑に反して、クロエはいつになく緊迫した顔で断言した。一度、精神科医に診せた方が宜しいかと存じます、と。
『……わかった。考えておく』
 そんなクロエの注進が重く圧しかかっていたところへ、食堂で涙するサイファが目に留まったのだった。
(この不眠症が、一過性のものであれば良いのだが……)
 もし、今夜、自分が見守る中で何も起きなければ、たまたま悪夢が重なっただけだと、安心させてやることができる。
 だが、今後も続くようであれば、クロエが案じていたように、精神科の治療が必要になるかもしれない。
 これまで彼女を苦しめてきた懐郷病が、精神の均衡を崩し始める序章であったとは、考えたくなかった。
(夢魔になんか、負けるでないぞ……)
 ユウザは再び、サイファの髪に唇を寄せた。ほのかに立ち昇る香油の匂いが、鼻腔を甘くくすぐる。
(私も、誘惑に負けぬよう、努めねば……な)
 早くも胸を焦がし始めた彼女の存在に軽く慄きながら、ユウザは何か他の事でも考えて気を紛らそうと試みた。
 メルマールの記憶に微かに残っているという、二人の男たちの身元。ヘンシェルが愛していたらしい人妻と、その娘の正体。帝都に舞い戻ってきた、哀しき殺人者の行方……。
 我知らず、深い嘆息がもれた。
 リゼリナの足取りをつかんだという報告は、まだ入ってこない。そのことに、やはり、今でも安堵している自分を覚える。
 しかし、この感情が、最早、恋とは遠くかけ離れたもの――彼女に対する負い目でしかないことは、よくわかっていた。
 だから、よけい気が咎めた。
 リゼリナは、自分のことを忘れていなかった。でも、自分は彼女を忘れるよう努力し、実際に過去の女≠ノできてしまっている。
 この温度差こそが、三年という歳月が生んだ、互いの心の距離だった。
 自分はもう、昔のようにリゼリナを想うことはない……。
 ユウザは、ふぅ、と大きく一息ついた。体の向きも変えられない状態が、段々、つらくなってきた。
 時刻は、午前二時を回っていた。
 今のところ、サイファの様子に変わった点は見られない。
(今の内に、寝台を下りるか)
 サイファには、一晩中抱いている、と言ったが、そもそも、就寝中の彼女を観察することが目的であって、一緒に寝るつもりなどなかった。この甘美な牢獄から脱するなら、今が絶好の機会だ。
 ユウザは、彼女の首の下に宛がっていた腕を、ゆっくり引き抜こうとした。
 すると、それを拒むように、手首をつかまれた。その、あまりに機敏で的確な動作に、一瞬、彼女が起きていたのかと驚く。
 しかし、起きていてくれた方がまだマシだと思える事態が、ユウザを襲った。
「こら! 体をすり寄せるな!」
 寝ぼけているのか、サイファはユウザの首に両腕を巻きつけ、寸分の隙間もできないほど、ぴったり総身を押しつけてきた。あげくには、逃がすまじ、とばかりに、ユウザの腿に自分の脚を絡めるように重ねてくる。
 これでは、完全にユウザの方が抱き枕だ。
 しなやかな体を甘えるようにこすりつけられ、下半身が、どうしようもなく正直な反応を示した。彼女の柔らかな内腿が、寝衣一枚隔てただけの腰に、吸いつくように寄り添っている。
「……お前は、一体、何度、私を生殺しにすれば、気が済むのだ?」
 好い加減、我慢も限界だ。
 惚れた女に無防備に迫られて、平気でいられる男の方がよっぽど異常だ、と開き直り、ユウザは一旦、サイファの体を心行くまで抱き締めた。芳しい髪に顔をうずめ、黄金[くがね]の雫が揺れる耳朶を、そっと唇で愛撫すると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。
 しかし、その顔に浮かぶのは、心地よさげな甘い笑みで……。
 抱きたい――。
 今ほど強烈に、その欲望に囚われたことはなかった。
 ユウザは唇を引き結ぶと、渾身の力を振り絞って、彼女の眠りを妨げぬよう、慎重に体を引き剥がしにかかった。己の胸板に密着して形をゆがめている、豊かな乳房に手を伸ばしたくなる衝動を、懸命にこらえながら。
 完全に体が離れた時には、全身、汗にまみれていた。頭が、熱に浮かされたように、くらくらする。
 ユウザは激しい渇きに耐えかね、寝台を下りた。戸棚から寝酒の葡萄酒を取り出し、直接、瓶に口をつける。
 ごくごくと喉を鳴らす内に、体が少し落ち着いてきた。三分の一ほどを一気に飲み干して、口元を手の甲で拭う。
 ユウザは瓶を携えたまま、自室の一角に据えられた洗面所へ足を運んだ。この苦行を無事なし遂げた己の自制心に、喝采を送りたい気分だった。
 いくら心から愛している女でも、相手が寝ている間に肌身を汚すような真似だけは、死んでも避けたかった。かといって、彼女の同意を得た上で肌を合わせる日が来ることは、永遠にないのだが……。
 ユウザは、顔を洗ったついでに、頭から水を被った。汗と一緒に、未練や煩悩まで流れてくれればいいのにと、切に願う。
「……きついな」
 思わず、本音がこぼれた。濡れた髪を浴布で拭いながら、物思いに耽る。
 この重圧に、自分はいつまで耐えられるだろう? サイファへの思慕を胸に秘めたまま、名ばかりの妻を、この腕に抱くことができるだろうか……?
 考えても、詮ないことだった。
 これからも、耐えねばならないし、抱かねばならないことは明白だった。己の心が、いくら千々に乱れても、課せられた使命は、何一つ変わらない。
 ユウザは使った浴布を洗い物用の籠に放り投げ、寝室に戻った。
 サイファの眠る寝台へ、足音を忍ばせ近づきかけたところで、異変に気づく。
「んんっ……」
 サイファのくぐもった呻き声がした。
 とうとう始まったか、と彼女の顔をのぞきこむと、眉が苦しげにひそめられていた。
 すぐにでも声をかけて起こしてやった方が本人にとっては良いのだろうが、もう少し様子見が必要と判断する。
 その内、サイファの息が徐々に上がってきた。暑いのか、上掛けを乱暴に払い除け、床へと蹴落とす。
(寝相の悪さは相変わらずだな)
 落ちた寝具を拾い上げ、ユウザは寝台の脚辺[あとへ]へ置いた。
 そろそろ起こしてやるか、と腕を伸ばしかけ、はっと息をのむ。
 彼女の細い腕に、赤紫の痣が螺旋状に浮かび上がっているのが見えた。まるで、長大な毒蛇[どくへび]が巻きついているかのような……。
(これは一体、何事だ?)
 ユウザは枕元の燭台を手に取り、彼女の腕にかざした。よく見ると、痣は幾重もの鱗を連ねたような蛇紋を描いている。
 今までに、見たことも、聞いたこともない症状だった。
 これはもう、精神論で片付けられる問題ではない。彼女の体内で、確実に何かが起きている。
 ユウザが見ている間にも、痣は、どんどん広がっていった。腕だけでなく、足首から脹脛[ふくらはぎ]、膝、腿へと[のぼ]っていく。
(まさか、全身……?)
 嫌な予感がした。ユウザは思い切って、サイファの寝真着の釦を外していった。
「悪いが、検めさせてもらうぞ」
 小さく詫びて、裾の方から捲り上げると、案の定、腰骨から下腹部、胴回り、胸の膨らみへと、這うように痣が続いている。
 象牙色の滑らかな肢体に絡みつく紫色の痣は、痛々しくも、淫靡に見えた。サイファが夢に見たという、[くだん]の男に陵辱されかけた姿が生々しく連想され、胸が酷く騒ぐ。
 ユウザははだけさせた衣服を整えてやると、うなされているサイファの頬を、ぺちぺちと軽く叩いた。
「おい、起きろ」
 何度目かの呼びかけで、彼女はようやく跳ね起きた。しっとりと汗で湿った髪を獅子の[たてがみ]のように振り上げ、荒い息を繰り返す。
 その時、不思議なことが起きた。
 体全体に現れていた痣が瞬く間に薄らぎ、ものの十秒も経たない内に、すっかり消え失せてしまった。
(これでは、本人も気づかないはずだ)
 悪夢の余韻を引きずっているのだろう。サイファは青白い顔を強張らせ、じっと手元の一点を見つめたままだった。
「大丈夫か?」
 寝台の端に腰かけ、サイファの顔を覗きこむと、彼女は大きく目を瞠った。それから、ああ、そうだった、と小さく呟いて、泣き笑いを浮かべる。
「……ごめん。また、あんたの寝床を奪っちゃったみたいだ」
「そうだな」
 ユウザはわざと横柄に応じた。そればかりか抱き枕にされた、と淡々と不平をこぼしてみせる。
「嘘だろ!?」
「こんなことで嘘をついて、どうする」
 信じられないと言わんばかりのサイファに、ユウザが即答すると、たちまち、彼女の頬が羞恥に染まった。無意識ながらも、何か心当たりがあったらしい。うつむき、ごめん、と一言、蚊の鳴くような声で謝る。
「なに、謝罪には及ばぬ。どうも私の抱き心地は、あまり良くなかったと見えるからな」
 肩をすくめて笑ってみせてから、ユウザは、ふいに真顔を作った。
「今度は、どんな夢を見た?」
 斬りつけるように核心に触れると、サイファは再び表情を硬くした。両目を伏せ、微かに唇をわななかせながら、ラヴィが川で溺れる夢、と、ぼそりと答える。
「その夢に、例の蛇も出てきたか?」
 金色の目をした巨大な奴だ、とユウザが問いを重ねるのと同時に、サイファは勢いよく顔を上げた。
「何で、わかったんだ?」
「やはりな」
 ユウザは自らの推理に自信を深めた。
 どんな理屈かは不明だが、彼女の悪夢には黄金の瞳の大蛇――ヒリングワーズで一悶着あった、アンカシタンの男が関係している。
 毒か、暗示か、細菌か……とにかく、彼女の手首に噛みついた際、何らかの仕かけを施したに違いない。
「サイファ、今のお前には、妙な呪術の[たぐい]がかけられている。明日、ルーアン殿に診ていただこう。そうすれば、解決の糸口がつかめるかもしれない」
「……うん」
 素直にうなずいたサイファだったが、その顔には不安が満ち満ちていて、ユウザはたまらず彼女を抱き寄せた。
「案ずるな。私が必ず、助けてやる」
 後ろ頭を軽く撫で、恐怖で凝り固まってしまった背筋をほぐすように、優しく何度もさすってやる。
「……ありがとう」
 しばらくして、ユウザの胸に頬を預けたまま、サイファは囁いた。ゆっくりと面を上げ、こちらを上目遣いに見ながら、あたしも頑張るよ、と無理に笑ってみせる。
 その儚くも健気な笑顔を見た瞬間、ユウザの中で、一切の[たが]が外れた。
 躊躇も、自戒もなく、彼女の唇に、[おの]が唇を重ね合わせる。
 この世界に、この女以上に大切なものなど、何一つない。
 そう、心の底から確信しながら――。
- 2014.12.28 -
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