Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
第 74 話  黎明[れいめい]
 今朝の皇帝への拝謁は、珍しく五分で済んだ。
 その代わり……。
「今日の午後だが、一時ばかり時間を作るようにと、陛下の急な仰せでな。キリアン殿には申し訳ないが、見舞いは日を改めねばならなくなった」
 老執事へ告げる口ぶりに、いささか愚痴めいた響きがあるのを自覚しながら、ユウザは小さく肩をすくめた。
『そなたと話し合っておきたいことがあるのですが、今は時間がとれぬのです。今日の一四時に、私の部屋へ来てたもれ』
 朝の挨拶もそこそこに、そう有無を言わせず言い渡され、ユウザは早々に退席を許された。いや、許されたというより、追い出されたという方が正しい。
 近ごろのハシリスは、例の神事の準備に忙しいらしく、自身の仕事の幾つかは皇太子へ委任し、ほとんどそれにかかりきりになっている。
 全く、ユウザにとっては甚だ迷惑な話であった。我が儘な女神の気まぐれには慣れているつもりだが、突然の命令に、己の予定が狂わされることに変わりはない。
「では、お詫び方々、私が代わりにご様子を伺って参りましょう」
「ああ、そうしてもらえると助かる」
 モーヴの、こちらの要望以上の申し出に、我知らず肩の荷が下りるのを感じた。
 先日、見舞いに行く旨を伝えた際、キリアン・アストリッドから、楽しみに待っている、と無邪気な返事をもらっていただけに、土壇場で約束を破るのはひどく心苦しかった。
 しかし、モーヴが名代として訪問してくれれば、少なくとも己の本意が誤って伝わる恐れはない。
「余計な仕事を増やしてすまないが、キリアン殿に、くれぐれも宜しく伝えてくれ。後日、必ず伺うから、と」
「畏まりました」
 モーヴは、全て私にお任せ下さいと言わんばかりの頼もしげな笑顔で頷くと、ところで、と話題を転じた。
「今日から、秘書官見習という肩書でパティをクロエ殿の下働きに呼び寄せましたが……果たして、あれがお役に立てましょうか?」
 たちまち、先ほどとは打って変わった憂い顔になる。
「もちろんだ。何と言っても、クロエ第一秘書官殿、直々のご指名だからな」
 ユウザは笑って請け合った。
 人材不足で頭を悩ませている今、クロエが手ずから後進を育てようとしているのは明白だった。彼に仕込まれれば、パティも大きく化けるかもしれない。
 そこへ、軽快な合図とともに、話題の当人が現われた。
「失礼しまっす! あ、お爺様! 今日から宜し――」
「こらっ! ご主人様の前で、肉親に敬称をつけて呼ぶとは何事ですかっ!」
 入室したばかりのパティに、いきなりモーヴの雷が落ちる。
「わぁっ! ご、ごめんなさ――!」
「この場合は申し訳ございません≠ェ適当です!」
「も、申し訳ございません〜」
「語尾は伸ばさない!」
「はい! 申し訳ございませんでしたっ!」
 一言喋るごとにモーヴに正されて、パティはタジタジになった。
「さすがは侍従長殿。妥協のないご指導ぶり、実にお見事」
 身内相手だからこそのモーヴの手厳しい態度に、ユウザは笑顔で割って入った。
「早速、勉強になったな、パティ。モーヴとクロエの二人がかりで教わるのだから、お前も心強かろう?」
 すっかり萎縮してしまったパティの頭を、いつものようにポフポフと撫でてやる。
「……でも、本当に、僕なんかに務まるんでしょうか?」
「さて? それは、これからのお前の頑張り次第だな」
 おずおずと自信なさげに見上げてくるパティに、ユウザはあえて真実を告げた。
 今、自分が嘘でも太鼓判を捺してやるのはたやすいが、そのことが後に要らぬ重圧となっては気の毒である。できることなら、パティの意志で、この勤めを果たしてもらいたいと願う。
「――とはいえ、私の側近は少数精鋭が過ぎてな。主戦力たるクロエが怪我で動けぬ今、単純に人手が足りない。お前が来てくれただけで、とても助かる」
 もっとも、未来の第二秘書官が誕生するに越したことはないが、と、わずかに期待をほのめかすと、パティの表情がたちまち明るさを取り戻した。
「僕、一生懸命お勤めします! お爺――じゃなくて、侍従長、本日より宜しくお願い致します!」
 彼なりの精一杯で、ぺこりとモーヴに頭を下げる。
 モーヴは、うむ、と重々しく頷くと、先にクロエの部屋へ向かうよう指示を出した。それへ新米秘書官が従うのを見届けてから、深々と息を吐く。
「何とも見苦しいところをご覧に入れまして、誠に申し訳もございませぬ」
 日ごろの教育がなっておりませんで、と恐縮するモーヴに、ユウザは、いや、と首を振った。
「パティは、御者としてなら既に一人前だ。秘書官の仕事とて、すぐに、という訳には参らぬであろうが、おいおい立派にこなせるようになるだろうよ」
「それなら、良いのですが……」
「私は信じているぞ」
 なおも心もとなげな様子を見せるモーヴに、晴れやかに笑ってみせる。
「パティは可愛い弟分だが、それより何より、モーヴ・パジェットの意を継ぐ者だからな」
 不安を覚える理由がない、と老翁の薄い肩にポンと手を置く。
「……これは、もったいないお言葉」
 一瞬、大きく目を見開いたモーヴは、すぐさまクシャクシャと細めた目の端を、そっと指先で拭った。
 そのさり気ない仕草には気がつかなかったふりをして、ユウザは話を変えた。
「時に、今朝の食事だが、サイファの給仕は不要だ」
「はて、何ゆえでございましょう?」
 こちらも何か粗相をいたしましたか? と、またしても憂い顔になった老執事に、いやいや、と慌てて手を振る。
「少し、独りで考えたいことがあってな」
 サイファにも、そなたからうまく言っておいてほしい、と、ついでに面倒を押しつけてしまう。
 モーヴは、そういうことならば、と目に見えてほっとした表情を浮かべると、早速、サイファへの伝言を携えて部屋を後にした。
「……私も、まだまだ青くさい」
 自室で独りきりになるなり、ユウザは思わず苦笑をもらした。
 あまりに熱くなり過ぎた心身を、熱源から遠ざけて、冷まさなければならないと思った。少しでも気を抜けば、愛しい女の温もりばかり追い求めてしまう自分がいる。
 昨夜の一連の出来事は、自分で起こしておきながら、心情的には青天の霹靂だった。
 あの時――己の中で、サイファ・テイラントが何ものにも代えがたいほど大切な存在である、と天啓のように悟った瞬間、ユウザは、これまで己を縛りつけてきたあらゆる鎖が、崩れるように解けていくのを感じた。
 どんなに他者を想い、自らを律しようとも、己の魂の望み――理性や顕在意識の遠く及ばぬところで導き出された真の欲求に抗うことはできないのだ、と思い知らされた瞬間でもあった。
 代々イグラット帝国を統べてきた者の末裔として、自分は確かに、この国の平和な未来を、臣民たちの豊かな暮らしを、心の底から願っている。そのために己にできることがあるならば、喜んで尽力したいとも思っている。
 しかし、それでもなお一番に希うのは、サイファの――己が∴、する者の幸福なのだ。
 そう気づいた時、覚悟は決まった。
 もう、迷わない――。
 自分の本心を認めたら、黎明の地平に朝陽がほとばしるがごとくに、進むべき道が見晴るかせた気がした。
(さて、道は見えたが――)
 その道のりの、何と果てなく、険しきことか、と苦い笑みが漏れる。
 だが、進むしかないのだ。その先にしか、望むものがないのだから――。
「おい、お前は本当にユウザ・イレイズか?」
 ふと目を上げた先に映った鏡中の自分に、声をかける。まるで長年の憑き物が落ちたかのように、清々しい顔をしているこの男は、本当に自分なのだろうか? と。
 昨日までの自分と、今の自分が、一八〇度違う心もちで、真逆の方向に突き進もうとしているのが、自分でも不可思議だった。
 さらに白状してしまえば、そうなった原因が、一人の女のためである、というのも、未だ信じがたい。
「まったく、厄介な女に惚れてしまったものだ」
 口ではこぼしながら、胸は弾むように躍っていた。かつてないほど軽やかに、力強く。
- 2018.02.18 -
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