Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
For. 棗木海星 様 - キリリク : 30,000 Hit
番 外 編  琥珀[こはく][ひとみ][うつ]るもの
 昼下がりのフラウ城。
 その一室から、[ほとばし]るような悲鳴が上がった。
[]だだだだ……!」
 叫びながら廊下に転がり出て来たのは、鬱金[うこん]色の毳々[けばけば]しい衣装を纏った中年の男だ。その薄い肩に、白くて大きな鷲が、鋭い爪を食い込ませている。
「ルド! もう、よしな!」
 部屋の内から、涼やかな女の声が聞こえると、鷲は羽音を立てて舞い上がった。戸口に現われた娘の腕に、そっと降り立つ。
「だから言っただろう? あたしに近づくなって」
 紅い絨毯の上で尻餅をついている男に向けて、娘は溜息混じりに呟いた。せっかく、忠告してやったのに、と。
 それに同意するかのように、鷲が短く鳴いた。その琥珀色の瞳には、長い銀髪と、冴え冴えしい青い目をした娘の横顔が、綺麗に映り込んでいる。
「おのれ! 皇族に向かって、何たる無礼!」
 男は負傷した肩を押さえて立ち上がると、体裁を繕うべく、見下した顔で吐き捨てた。
「いくら、陛下のお気に入りとはいえ、平民上がりの奴隷風情が思い上がるな! 今すぐ、不敬の罪で訴えても良いのだぞ?」
 言いながら、唇を厭らしく歪める。それが嫌なら、這いつくばって許しを請え! 私の靴に接吻しろ、と。
 その馬鹿げた要求に、娘は思いきり眉をひそめた。
 強大な国力を誇る、イグラット帝国。
 この国には、古くから厳格な種姓制度が敷かれていた。現人神である皇帝を[ちょう]に、政治と宗教を司る皇族、彼らに仕える、特権階級の宮人[みやびと]、財界を担う商人、平民、奴隷の順に階級が設けられている。
 中でも奴隷は、その用途に応じて三つの身分に分けられた。天与の美貌を以って主の心を慰める、上級の I 種。身の回りの雑事をこなす、中級の II 種。そして、ただの労働力として肉体を酷使する、下級の III 種――。
 娘は猟人の出でありながら、その類稀なる美貌で皇帝の寵愛を受けた、奴隷 I 種であった。その為、彼女の行儀の悪さや、目上の者に対する不遜な態度も、かなり大目に見られている。
 だが、自分より身分の高い者に命じられれば、何人といえども隷属せねばならない、という帝国独自の奴隷制度により、たった今、彼女に下された屈辱的な命令は、拒むことを許されなかった――はずなのだが。
「うわぁ!」
 尊大に右足を突き出してくる男に、鷲が再び襲いかかった。その尖った嘴で、手加減なしに男の頭を突つく。
「痛いっ、止めろ! 止めるんだ!」
 男が悲鳴を上げて逃げ惑っても、一向に攻撃の手を緩めない。
 鷲である彼にとっては、人間同士の下らない決め事など、一切、関係なかった。ただ、身内に潜む本能のままに動く。
 だから――。
「ルド!」
 自分を呼ぶ娘の一声で、ルドは大人しく男の頭から離れた。
 彼を捕らえた娘の言葉だけは、聞き入れる。自分より強い者に服従するという野生の掟に、この上もなく忠実に。
「サイファ・テイラント! このままで済むと思うな?」
 鷲共々流刑にしてくれる! 髪を振り乱した男は、捨て台詞を残し、這々の体で去って行った。
「おととい来やがれ!」
 その背に向かって娘が顎をしゃくると、ルドはそれに倣うように、嘴を高く振り上げた。
 このように、人語を解するような素振りを見せるルドだったが、実をいえば、ルド≠ニいう響きが自分の名前≠示すもので、その主人の名がサイファ・テイラント≠ナあることを、正確に理解≠オていた訳ではなかった。彼女が自分に向かって笑いかける度に、ルド≠ニいう音を発するので、その声に反応するようになっただけである。
 しかし、主人が自分に放つ言葉の意味≠ヘ、良く解っていた。
『 ルド、おいで!』
『ご飯だよ〜、ルド』
『ルドは良い子だね……』
 力強くて、優しくて、時に、淋しげに響くサイファの声を、ルドは全身で読み取る。主人が何を伝えたいのか、何を思っているのか。自分は何をすべきなのか。
「ありがとな、ルド」
 サイファにしっかりと抱きしめられながら、ルドは彼女を慰めるように、その頬に頭を[こす]りつけた。主人が、こうして自分の羽に顔を[うず]めてくるのは、哀しんでいる証拠なのだ。
 不愉快な訪問者を追い払った後、彼女はいつも溜息をこぼす。青い瞳を曇らせながら、村に帰りたいね、と言って、ルドに頬を寄せる。時折、彼の羽を涙で濡らすこともあった。
 ルドは嘴を動かして、サイファの銀髪をそっと撫でた。自分を捕らえた、勇猛で慈悲深い支配者――。
 ルドがサイファに狩られた時、傷つけられた左翼は、彼女の献身的な看護によって癒された。その瞬間、彼は屈したのだ。自分を生かすも、殺すも、思いのままだった、この少女に――。
「お前は優しいね」
 サイファが顔を上げる。泣いた跡は見られなかったが、その表情に、ルドを射落とした時の猛々しさは微塵も無い。
 この部屋に囚われてからというもの、彼の[あるじ]は、確実に生気を失いつつあった。
 弱ってしまった主人を守る為、ルドは、今日も目を光らせていた。
 露台に出ているサイファの横で控えていると、またしても、見知らぬ男が訪ねてきた。黒い髪に緑色の目をした、やたらと背の高い若者である。
「何が見える?」
 青年は主人に近づくこと無く、何やら、低い声で問いかけてきた。
「何も」
 ふり向いたサイファに、いつものような警戒心が無かったので、ルドはしばらく様子を見ることにした。
「あんたも律儀だね。いくら陛下のご命令とはいえ、用も無いのに来るなんて」
 部屋に戻り、寝台に横たわった主人の元へ、すかさず降り立つ。
「これが仕事だ。私の事は無視しろ」
 青年は寝台から離れた所にある長椅子に腰を下ろすと、ぐるりと室内を見渡した。彼女が話しかけても、その場から動かずに、淡々と言葉を返している。
 二人の会話の内容は全く解らなかったが、この青年の態度に、ルドは戸惑いを覚えていた。
 これまで、彼が成敗してきた人間共[オス]≠ヘ、部屋に入るなり、すぐにサイファに近づいた。そして、欲望を剥き出しにした顔で、彼女の躰に触れようとする。そこで、ルド自慢の鉤爪[かぎづめ]が大活躍するのだ。
「冗談じゃない! 今だって十分窮屈なのに、これ以上、縛られてたまるか!」
 突然、サイファが寝台の上に跳ね起きた。どうも、青年が主を怒らせたらしい。
 驚いたルドは、わたわたと羽をばたつかせた。
「元はといえば、お前が望んだ事ではないか。一人では退屈だったのだろう?」
 青年の声に、わずかな嘲りが混じる。
 その様子に、いよいよ出番か、とルドが身構えると、予想に反して、枕を抱えたサイファがバッタリと倒れ込んできた。
「見張りを頼んだ覚えは無い!」
 むくれたように叫ぶも、青年に背を向けたまま、目を瞑ってしまう。
「私だって、お前と鬼ごっこを続ける気は無い。あまり手を焼かすなよ」
 青年は呆れたように返すと、腰の長剣をテーブルに置き、じっと動かなくなった。何やら、考え事を始めたようだ。
 ルドは青年を観察しながら、体中の神経を研ぎ澄ました。主人が寝息を立ててしまった今、彼女を守れるのは自分だけである。
 しばらくすると、やはり、この男も近づいてきた。
 ルドはサッと両翼を広げて主を庇うと、青年を睨みつけた。数々の敵を退けてきた、樹海の王者の眼差しで。
 すると青年は、それまでの無愛想から一変して、穏やかな笑顔になった。
「心配するな。危害を加えるような真似はしない」
 その瞳に狡猾さが感じられなかったので、ルドは大人しく羽を畳んだ。いつでも飛びかかれるよう、心の準備はそのままに。
 だが、その配慮は無用に終わった。
「人を襲うのは、主を守るため……か」
 青年は吐息混じりに呟くと、サイファの躰に上掛けをかけた。ほんの少し、彼女の寝顔を見つめた後、椅子に戻る。
 それから数時間後、青年は主人を起こさぬように、静かに部屋を出て行った。彼女を訪ねてきた者で、ルドの餌食にならなかったのは、この青年が初めてだった。
 その名をユウザ・イレイズ≠ニいい、昨夜まで、サイファの宿敵≠ナあった事など、ルドが知る由もなかった。
 射し込む陽光が橙色に変わる頃、主人が目を覚ました。
 その足元で寝ずの番をしていたルドは、彼女の傍に向かうべく、いそいそと蒲団の上を歩いた。
 だが、突然、体の上に落ちてきた上掛けに目隠しされる。自分の存在に気づかなかった主人が、放って寄越したものだった。彼女の仕草は、いつも、とっても大雑把なのだ。
 ルドはそれを振り落とそうと、羽を動かした。
「あ、ルド! そこに居たのか!」
 物音に気づいたサイファが、慌てて上掛けを[めく]ってくれる。蒲団の隙間から、ルドが這い出ると、よいしょ、と抱え上げられた。
「ごめんな、ルド」
 主人に頭を撫でられながら、ルドはその心地好さに目を閉じた。彼女の温かな手の感触は、彼のお気に入りだった。
 ルドを放して、しばらくウロウロしていたサイファは、もう一度、寝台に突っ伏した。寝返りを打ったり、丸くなったり、じたじたと手足を動かしたりしている内に、再び、ユウザが現われる。
 その後ろから、次々と運び込まれるご馳走の匂いに、ルドは目を爛々[らんらん]とさせた。しかし、それが自分の餌ではないと分かっているので、騒がない。彼の食べ物は、主が用意してくれるからだ。
「食事の時間だ。いつまで寝ている」
 横たわるサイファの額をユウザが小突いても、ルドは黙っていた。先刻同様、彼の態度に敵意は無い。
 やがて、二人が食事を始めた頃、ルドは何度も瞬きするようになった。いくら珍しい羽色でも、中身は普通の鷲なので、夜になれば、どうしても眠たくなってしまう。
 それでも、何とか[]えていたルドだったが、ユウザが主人に無礼を働くことは無く、また、サイファの機嫌も良かったので、とうとう目を閉じた。
「何を見ている?」
「あ、いや、陛下はどうしていらっしゃるのかと思って……」
 眠りの入口で、サイファとユウザの声がする。しかし、一度[ひとたび]閉じてしまった瞼は、そう簡単には[]いてくれない。
 結局、この[]の二人を、ルドが見届けることは無かった。もっと言ってしまえば、毎晩、彼が眠りに着いた後で、主人が城からの逃亡を図っていたことも、知らなかったりする……。
 一夜明けると、奇跡が起きていた。
 それまで、鬱々として暗かったサイファの顔に、輝きが戻ったのだ。窓にかけられたままのカーテンを鼻歌混じりに切り取ったり、収納箱の中を引っ掻き回したりと、忙しそうに動いている。
 その様子を、ルドはシャンデリアに留まって見下ろしていた。そして、今日もあの青年がやって来る。
「お前、部屋の物を動かしたか?」
 部屋を見回したユウザが首を傾げると、サイファは明らかに動揺した。しかし、二言三言、言葉を交わすと、珍しく、声を出して笑う。
 主人の笑顔を見るのは、一体、何日ぶりだっただろう?
 ルドは、たまに、サイファに連れられて、白髪の老婆の元へ向かう。その時は、普段より和らいだ顔になる彼女だったが、こんな風に無邪気に笑うことは無かった。
 だが、それも束の間のことで、会話を続ける内に、サイファの声はどんどん沈んでいった。ユウザの言葉が彼女を傷つけたのかと、ルドは瞳を険しくした。
死人[しびと][しゅ][すが]るなんて、馬鹿だと思うか?」
「……さあな。それで心の平穏が保たれるのなら、問題ないだろう。だが――もし、それが、お前を死に駆り立てているのなら、私が壊してやる」
 ユウザが真剣な目をして、主人を見つめる。
 すると、サイファは薄っすらと笑った。これまでに見たことも無いほど、哀しい笑み――。
 これ以上、主を痛めつけるのは許さない。ルドが飛翔の体勢に入ると、ユウザが小さく笑った。
「大事なものが沢山あるからな。いつ死んでも、死にきれない」
 その声を聞いて、ルドは思い[とど]まった。彼の中に、主人を気遣う優しさを感じる。
 ユウザが出て行くと、ルドはサイファに呼び寄せられた。彼女の腕に降り立つなり、ぎゅうっと力を込めて抱きしめられる。
 ルドは大人しく彼女の腕に身を任せた。その翼が、しっとりと濡れても――。
 翌朝、まだ日も昇らぬ内から、ルドはフラウ城の屋根の上にいた。門前では、大勢の人間がたむろし、その中にサイファとユウザの姿も見える。
 主人のそわそわした態度から、彼女が何処かに出かけるのだという事は、ルドにも判っていた。その行く先が、彼らの故郷、ディール村だとは、思いもしなかったが。
 その時、ルドを呼ぶサイファの指笛が響いた。
 彼はバサリと翼を広げると、主人の腕を目がけて滑空した。その細くて柔らかい腕を傷つけぬよう、中空でわずかに速度を落とし、撫でるような軽やかさで縋りつく。
 すると、周囲から一斉に、サイファとルドを称える歓声が上がった。しかし、彼には、ただの騒音にしか聞こえなかった。
「よく、そこまで飼い馴らしたな」
 ユウザの言葉に、主人が得意げに応じる。
「別に、教えた訳じゃないよ。あたしが呼んだから、来てくれただけだ」
 にっこり笑って、ルドの頭を撫でてくれる。彼はその肩に身を摺り寄せた。
「なるほど。確かに籠はいらないようだ」
 腰を屈めたユウザが、ルドと視線を合わせてくる。サイファの護りはお前に任せよう、と緑眼を細めて。
 ルドは鋭く一鳴きした。
 しつこいようだが、彼は人間の言葉そのものは解らない。でも、ユウザの思いは感じ取れる。
 自分を見つめる目が、サイファと良く似ているのだ。ルドをただの鳥としてではなく、一人の、否、一羽の仲間と見なした瞳に。
 主人を乗せた馬車を、ルドは全力で追いかけていた。
 眼下に広がる碁盤目状の街並みや、遠くにそびえる山脈には目もくれず、ただ目の前を飛ぶ不思議な生き物を見据える。
 馬車を引いて飛んでいるのは、黒い体に、同じく黒い翼を生やした異形の馬だった。それが天馬≠ニ呼ばれる珍獣である事を、ルドは知らない。遅れを取らないよう、ひたすら双翼を動かすだけだ。
 そうして、どれほどの距離を飛んだのだろう? 馬車は、とある港町に着陸した。
 ルドは目に入った赤煉瓦の屋根に降りると、疲れた体を休ませた。そうしながらも、目だけはちゃんと主人を追いかける。停泊する黒い船の前で、ぽけっと突っ立っている後姿を。
 その背をユウザが押すと、サイファは急にキョロキョロと辺りを見回した。そして、合図の指笛を吹く。
 主人に呼ばれた事で、にわかに英気を取り戻したルドは、サイファに向かって真っ直ぐに飛んだ。周りに、小うるさい人間共がいたが、構わず最短距離を行く。
 すると、またしても辺りがざわめいた。しかも、今朝とは比べ物にならない程の喧騒で、地に伏した人々が、何事か叫んでいる。
 やがて、彼らを鎮めるように、横にいたユウザが口を開いた。その、人の言葉とは思えない霊妙な声に、ルドはピクリと首を伸ばした。
 辺りを包むユウザの滑らかな語調は、かつて、ルドが暮らしていた森に似ていた。木々を震わす、風のさざめき。絶え間なく流れる、澄んだせせらぎ――。
 懐かしくて、心地好い。
 自分を抱いた主人も、うっとりと目を閉じている。その安らいだ表情に、ルドはうずうずと足を揺らした。
 この時、彼の中に残っていたユウザに対する微細な用心は、完全に消え去った。
 この者は、主人に仇なす存在では無い。むしろ、自分と目的を同じくする者だ。
 そこに、サイファと何やら話していたユウザが、ルドの頭を撫でて、微笑みかけてきた。彼は激しく身を[よじ]ると、主の腕から、青年の肩へと乗り換えた。
 自分の大きな体をサイファの細腕に預けて疲れさせるよりも、彼女の隣に立つユウザの肩に留まった方が、主人の為になると判断したのだ。
 こうしてルドは、サイファを守る同志≠ニ、素晴らしい止まり木≠同時に手にしたのだった……が。
 狭い籠の中で、ルドは不本意ながらも大人しくしていた。ユウザの肩に乗ったまま船に乗り込んだ彼は、船室に落ち着くなり、主人の手によって閉じ込められたのだ。
 サイファのする事に逆らうつもりは無いルドだったが、主人の様子が、何だかいつもと違うような気がしていた。
「どうして、お前まで靡くんだ?」
 籠の前に屈み込んだ彼女が、その隙間から、彼の翼を逆撫でに突ついてくる。いくら、愛する主人の所業でも、これは、ちょっぴり気持ちが悪い。おまけに、抗議を込めて暴れても、全然やめてくれないし。
「ちょっと、嫌がってるんじゃないの?」
 そこへ、救いの手が差し伸べられた。お団子頭の少女が、主人を[たしな]めてくれる。
 ようやく解放されたルドは、狭苦しい体勢ながらも、何とか羽繕いした。一体、主人はどうしてしまったのだろう?
 しばらくして、ルドを部屋に残したまま、サイファがふらりと出て行ってしまった。後を追いたくても、固く閉ざされた籠の[ふた]は、びくともしない。
 どうしたものかと途方に暮れていたところへ、ちょうど良く、ユウザが訪ねてきた。
 ルドは、バタバタと羽ばたいて、彼の注意を引きつけた。思惑通り、気づいてくれたユウザが、籠の前に膝をつく。
「お前の主は何処に居る?」
 首を傾げる彼に、ルドは精一杯訴えた。出してくれ! 籠の編み目から嘴を出し、ぐりぐりと広げることで。
「出たいのか?」
 嬉しくなるくらい物分りの良いユウザが、蓋を取ってくれる。
 ルドは素早く籠を這い出ると、そのまま、廊下に飛び出した。
 主人の居場所は気配で分かっていた。しかし、[はや]る気持ちを抑えて、ルドは階段の手摺に留まった。ユウザが自分の後をつけてくると、確信していたのだ。
 そして、その勘は正しかった。
 部屋から出て来たユウザは、ルドを見つけると、真っ直ぐに向かって来た。それを見届けたルドは、一足先に進み、しばらく行って、またふり返った。
 甲板に出ると、主人がぽつんと佇んでいた。
 ルドがその足元に降りると、彼女は驚いた顔をした。どうやってここに? と、小首を傾げながら、ルドを抱き上げる。
「こんな所で、何をしている?」
 少し遅れて現われたユウザが、声をかけてきた。
「……ちょっと、外の空気を吸いにきました」
「は? お前、何処か具合でも悪いのではないか?」
 主人の無事を確かめたルドは、二人の会話をほとんど聞き流していた。時折、ユウザの激しい声やら、サイファの奇声やらが聞こえてきたが、相手がこの男なら自分の出る幕は無いと、安心しきっていたのだ。
 しかし……。
「馬鹿で悪かったな! どうせ、あたしが飼うより、利口なあんたに飼われた方が、ルドだって幸せだろうよ!」
 サイファの腕の中でぬくぬくしていたルドは、突然、ユウザに手渡されてしまった。
 主人の柔らかい胸から、ユウザの固い腕に押しつけられ、ルドは、ひょこひょこと首を動かした。改めて、二人の遣り取りに耳を[そばだ]てる。
「何の真似だ?」
「言葉通りだよ! 今まで、あたしの言う事しか聞かなかったルドが、あんたには、あっさり懐いた。あんたを、新しい主人に選んだって事だ……」
 途中、ルド≠ニいう言葉が出てきたので、彼は、サイファが自分の事を話しているのだと悟った。でも、鼻声で捲くし立てる主の声は、酷く淋しげだった。
 何をそんなに嘆いているのか?
 ルドは、ひたと主人を見据えた。
「何だ。そんな事でいじけていたのか」
 ユウザが小さく吹きだす。それに対して、青い瞳に涙を湛えたサイファが、口調ばかりは強く、言い返している。 いじけてなんかいない! と。
「この鳥は、本当に正直≠フ名に相応しいと思わぬか? お前は主≠ナ、私の事は仲間≠セと思っている。だから、私には敬意を払わない」
 言いながら、ユウザの大きな手の平が、ルドの翼を撫でた。
「……そうなのか?」
 サイファが腰を屈めて、ルドと目を合わせてくる。彼の心を探るような、確かめるような、信じたいと、願うような瞳――。
 ルドは、その美しい碧眼をじっと見つめ返した。
 主人が、自分の何を疑っているのかは解らない。けれども、彼女に対して、何一つ[やま]しいことの無い彼は、正直に己の心を晒すだけだ。
「何なら、証拠を見せてやろう」
 その時、ルドは再びサイファに押し返された。自分を受け取ろうと、主人が腕を伸ばす――と!
「うわっ! 何するんだよっ!」
 何を思ったか、ユウザが、いきなりサイファを抱きすくめた。叫んだ主人が、腕をふり回してもがいている。
 何たる不意打ち!
 ルドは、けたたましい鳴き声を上げると、俊敏に舞い上がった。そのまま急降下して、ユウザの顔に襲いかかる。
 両の爪に残る、確かな手応え。
 顔面への攻撃は彼の右腕に阻まれたが、その手首に、きっちりと爪痕を刻んでやった。
 空中を大きく旋回したルドは、サイファとユウザの間に、ふわりと降りた。黄金[こがね]色の瞳いっぱいに闘志を[みなぎ]らせ、裏切り者を見上げる。
 しかし……。
「馬鹿! 何も、ここまでしなくったって!」
 何とした事か、主人が慌ててユウザの手当てを始めてしまったではないか。
 その様子に、ルドは、ちょっとばかり不機嫌になった。自分は彼女の為に闘ったのに。
 それどころか、二人して、何だか幸せそうに笑っている。
「気は晴れたか?」
 にっこりするユウザ。
「あんたこそ、大馬鹿野郎だ。――でも、ちょっと嬉しかった」
 照れ臭そうに囁きながらも、微笑む主人……。
「では、戻ろうか」
 ユウザが涼しい顔をして、こちらに目配せする。
 ルドはわずかに身構えながら、彼の肩に飛び乗った。主にする時とは違って、思いきり、爪を立てる。
 それは、無言の戒め。
 今は、主が笑っているから許してやる。でも、次は容赦しない――。
「なんか、腹へったなぁ」
 そんなルドの想いなど露知らず、さっきまでの憂鬱を嘘のように晴らした主人が、彼をふり返る。いや、その瞳に映るのは、ルドを乗せて歩むユウザの姿だ。
 ルドは琥珀色の瞳を静かに巡らせた。
 風に揺れる漆黒の髪。自分を振り仰ぐ、深い緑色の双眸。その唇の[はし]には、面白がるような笑みが浮かんでいる。
 ルドは一度大きく翼を広げてから、綺麗に畳み直した。今しばらくは、この止まり木に身を預ける。
 何よりも正直な彼の本能が、大丈夫だ、と告げているから――。
終   - 2003.08.18 -

POSTSCRIPT

* 反転させて読んで下さい。
『奴隷 I 種』番外編、第三弾でございます。
今回のお題は「ルド視点のサイファ&ユウザ」だったのですが、何だか、本編のダイジェスト版のような形になってしまいました(汗)。リクエストを下さいました棗木様、申し訳ありません。m(_ _)m
最初は、新たなエピソードをもってこようと思ったんです。でも、「ルドの目に映る盟友、ユウザの姿」となると、やはり「これまでのシーンをふり返らないわけにはいかないだろう!」と思い直しまして……。決して、手抜きでは無いんですよ? むしろ、いつも以上に頑張ったんです! これでも(力説)!
そんな訳で、棗木様のご希望に添えているのか、とってもとっても心配ですが、こんな感じに仕上がりました。
神沢 青
  
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