Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
For. 歌帖楓月 様 - 御礼 : イラスト
番 外 編  [][うるわ]しの[きみ]
「いくわよぉっ!」
 少女が投げた紅絹[もみ]色の[まり]は、澄み切った空に美しい弧を[えが]いた。それは、ぐんぐん飛距離を伸ばし、やがて、受け止める筈だった、もう一方の少女の頭上をも越え……。
「あっ!」
 二人が目で追う中、高い木の又にすっぽりと収まった。
「大変! 引っかかってしまいましたわ」
 受け手側の少女は青々と茂る大木を仰ぎ、次いで、毬を[ほう]った少女をふり返った。
「どう致しましょう、お嬢様?」
 とても届きそうにありませんわ、と小首を傾げる。
「あら、そんなの簡単よぉ」
 お嬢様と呼ばれた少女は、栗色の巻き髪を揺らしつつ、悠然と木の根元に歩み寄った。
「木に登れば、すぐじゃないの」
 太い幹をペシペシ叩きながら、事も無げに言う。さぁ、アリー。早く取ってきてちょうだい。
「えぇっ! [わたくし]が登るんですか!?」
 思いがけない命令にアリーが目を[みは]ると、お嬢様は力強く頷いた。
「もちろん」
「でも、お嬢様、あんなに高いんですよ? とても、私の力では……」
「じゃあ、諦めろって言うの?」
 言い淀むアリーを、お嬢様はきっと上目で睨んだ。
「あれは一番のお気に入りなのっ! 熟練工が一本一本丁寧に絹糸を巻いて作った、至高の逸品なんだから!」
 マルジュナまで行かないと手に入らないのよ! と、隣国の名前まで持ち出し、断固として首を振る。
「そんな貴重な物を、何だってポンポン放り投げてるんですか!?」
 鍵でもかけて、きちんと仕舞っておいて下さいよ。思わずぼやくと、お嬢様は鼻で笑った。
「解ってないわね、アリー。物は使うためにあるの」
 両手を腰に当てて、偉っそうに踏ん反り返る。毬は突いてこそ価値があるのよっ! と。
「……投げたくせに」
 アリーがぼそりと突っ込むと、お嬢様はコホンと一つ咳払いした。
「とにかく、今すぐ取ってきてちょうだい」
 それから、愛らしい丸顔いっぱいに笑みを湛え、誇らしげに宣言する。
「イグラット皇家お抱え商人、 アンバス家が長女――」
 ミリア・アンバスの名において命じるわ! と。
 緑溢るる清浄[しょうじょう]の地、イグラット帝国。
 生き神≠スる皇帝を[おさ]と定めるこの国には、古くから、厳格な種姓制度が敷かれていた。
 神の末裔であり、政治と宗教を司る皇族、彼らに仕える特権階級の宮人[みやびと]、財界を担う商人、平民、奴隷の順に階級が設けられている。
 中でも奴隷は、その用途に応じて三つの身分に分けられた。天与の美貌を以って主の心を慰める、上級の I 種。身の回りの雑事をこなす、中級の II 種。労働力として肉体を酷使する、下級の III 種である。
 こういった身分制度自体は、さして珍しいものでもなかったが、この国における奴隷制度は一風変わっていた。
 それは、自分より身分の高い者に請われれば、何人と言えども、その者に隷属しなければならない――というものである。この掟は絶対で、神の一族である皇族間においても例外なく適用されるのだ。
 それが、創業三〇〇年を誇る老舗の貿易商、アンバス家のお嬢様と、彼女の遊び相手として宛がわれた下女という、明らかな上下関係の前で、覆される道理はなく……。
「分かりましたわ」
 アリーは靴を脱ぐと悲愴な想いで幹に手をかけた。
 お嬢様ことミリアの無邪気なワガママ的ヒトデナシ発言≠ノは、すっかり馴れっこだった。
 しかし、この世に生を受けて十五年。初めての木登りである。それも、自分の背丈の倍はある大木への挑戦。恐くない訳がなかった。
 それなのに。
「落ちたら死ぬかもしれないから、充分、気をつけるのよ」
 追い討ちをかけるように、ミリアが真顔で言い放つ。
 恐らくは、自分の身を案じてくれての忠告なのだろうが、アリーは酷く憂鬱になった。
(死んだら、必ず化けて出てやる……)
 そんな暗い決意を胸に、アリーは木によじ登った。
 途中、何度も足を滑らせたが、必死に[すが]りついた。木肌に[こす]れた素足がチリチリと痛み、額に浮かんだ汗が頬を伝う。
「もう少し、もう少しよ。下を見ちゃダメ……」
 ぶつぶつと小声で自分を励まし、ようやく毬が挟まった木の又まで辿り着く。そして、毬を手に取り、ほっと息を抜いた一瞬、体がぐらりと[かし]いだ。
「アリー!!」
「きゃあっ!!」
 地面に叩きつけられる!!!
 そう覚悟した瞬間、予想は裏切られた。
 見開いたアリーの目に、落ちる自分を受け止めようと、両手をいっぱいに広げて待ち構えるミリアの姿が映った――と、同時に。
退[]いてぇーっ!」
「ひゃあっ!」
 ミリアの小さな体を、どしゃっと押し潰した。
「痛ったぁー……ああっ! お嬢様!」
 ミリアを下敷きにしたお蔭で、最悪の事態を免れたアリーは、慌てて跳ね起きた。体の下で潰れているお嬢様を、ゆさゆさと揺さぶる。
「お嬢様、しっかり!!」
「うう……」
 小さく呻いたミリアは、視点の定まらない瞳で恨めしげに呟いた。
「……アリー」
 あなた、重過ぎるわ、と。
「お嬢様、お怪我は!?」
「んんー?」
 猛烈に心配するアリーを前に、のろのろと体を起こす。
「全身が隈なく痛むけど、まぁ、問題は無いわ」
 コキコキと首を鳴らしながら、ミリアはしっかり頷いた。小さな体は大そう華奢に見えるのに、案外、頑丈に出来ているらしい。
「はぁー、良かったぁ……」
 アリーは大きく息を吐き出すと、ミリアのドレスについた土を払い落とし、きつい口調で問い詰めた。
「何で、あんな無茶をなさるんですか!? 私を庇ったせいで、お嬢様に、もしもの事があったら……!」
 怒っているのに、恐怖と安堵で、勝手に涙が溢れてくる。
 大事に至らなくて良かった。彼女が無事で、本当に良かった。
 自分より五つも年下の、小憎らしい女主人。決して、名主とは呼べないミリアに、こんなにも忠義を抱いていた自分自身に驚く。
「お願……いです……から、もう二度……と、こんな真似はしな……いで下さ……いね?」
 アリーがしゃくりあげながら訴えると、ミリアは、そうはいかないわ! と、ぶんぶん首を振った。
 途端に、アリーは急激な無気力に襲われた。こんな時ですら、なお聞き分けの無い事を[]かしやがるのか、このクソガキはっ!
 しかし、ミリアが続けた言葉は意外なものだった。
「だって、あなたは[わたくし]の奴隷なんですもの」
 胸を反らせ、キッパリと言い切る。
 主人が[しもべ]を守るのは当然の事じゃないの、と晴れやかに、華やかに笑いながら。
(どうして、[わたくし]が II 種なんですの?)
 アンバス家自慢の豪華絢爛な箱馬車に揺られながら、ミリアは頬を膨らませっぱなしだった。どんどん近づいてくる皇居を横目に、納得しきれない溜息をこぼす。
 事の発端は一週間前だ。
『……ミリアよ、父はお前を甘やかし過ぎたのかもしれん』
 アリー転落事故≠フ顛末[てんまつ]を聞くや、父、サウル・アンバスは、長い溜息をこぼした。そして、強い決意を湛えた瞳で、こう告げた。
『お前を皇太孫殿下にお預けしようと思う』
 奴隷 II 種として誠心誠意お仕えし、支配者のあるべき姿と、支配される者の苦悩を知りなさい、と。
 帝都を本拠地とするアンバス家は国内屈指の大店[おおだな]で、代々皇家に忠義を尽くし、その庇護の[もと]、隆盛を誇っていた。特に、サウルの代になってからは、現皇帝、ハシリス四世の格別なお引き立てを賜り、飛ぶ鳥を落とす勢いと世に噂されている。
 そんな大金持ちのお嬢様育ちのミリアに向かって、父は、奴隷になれ、と言うのだ。それも、雑用係として扱き使われる II 種に。
「……やっぱり、納得いかないわ」
 ミリアはぽつりと呟いた。それが、隣の父に聞こえたようで。
「好い加減、覚悟を決めなさい」
 仏頂面の娘を、サウルは苦笑顔で諭した。
「皇家にお仕えできるという事は、この上なく名誉な事なんだぞ? お前もアンバス家の一員として、家名に恥じない立派な振る舞いを心がけなさい」
 そう言って、最後は満面の笑顔になる。皇太孫殿下直属の奴隷になれるなんて、お前は帝国一の果報者だ、と。
「解っておりますわ」
 素直に頷いてみせながら、ミリアは心中で舌を出した。
 実を言えば、彼女の不満の種は、皇族の奴隷になる事でも、行儀見習いをさせられる事でもなかった。
 問題は、ただ一つ。
(何で、私が II 種≠ノ甘んじなくてはならないんですの?)
 窓に薄っすらと映る自分の顔を凝視しながら、ミリアは本気で思う。大きな栗色の瞳、ふわんふわんの豊かな巻き毛、小ぶりで形の良い鼻、桃色の愛らしい唇……。自分ほどの器量があれば、絶対、 I 種として扱われてしかるべきだ、と。
(まあ、いいわ)
 ミリアは腕組みすると、皮張りの背もたれに身を預け、瞳を閉じた。
 皇太孫殿下の目が節穴でなければ、自分が寵愛を受けるのは間違いのない事だ。
 それどころか……。
(もし、殿下に求婚されたら、どうしましょう?)
 眉間に皺を寄せ、ミリアは真剣に悩んだ。
 成人前ということで、公の場に姿を見せたことのない皇太孫殿下は、先ごろ開かれた剣術大会に身分を隠して参戦し、見事、優勝を果たしてしまった猛者[もさ]だという。
 しかも、大会出場者の話によれば、およそ人≠ニは思えぬ風貌で、冥界の守護神、ユウザリウスの生まれ変わりと称されるほど恐ろしいお方なのだとか――。
(……お断りしたら、やっぱり斬首になるのかしら?)
 まだ見ぬ主人を思い描き、ミリアは絶望的な気分になった。
 もしかしたら、自分の美貌が[あだ]になるかもしれない。
 わずかな危惧を抱きながらも、彼女を乗せた馬車は皇居の門をくぐり抜けた。
 帝都を見下ろす小高い丘に建つ巨城、フラウ。
 朝な夕なの陽射しを浴びて、幾つもの表情を見せる白亜の壁。青金石の文字盤が目に鮮やかな時計塔。ぐるりとめぐらした[ほり]には、青く澄んだ妙水[みょうすい][=本編6話参照]≠ェ満々と湛えられている。
 そして、その隣――といっても、人の足ではゆうに三十分はかかろうかというほど離れた場所に建つ黒壁の城が、ミリアの目的地だった。
 皇太子一家が住まう離宮、カレナ城。
 ここに、彼女が仕えるべき若き主人がいるのだ。
「アンバス家の娘?」
 門番に取り次ぎを頼むと、男は一瞬、怪訝[けげん]な表情になった。しかし、すぐに思い当たったようで。
「皇太孫殿下はフラウ城にお住まいだ。こちらには、滅多にお戻りにならない」
 答えながら、そんな事も知らないのか、と言わんばかりの顔をする。
(何よ、感じの悪い!)
 男の不遜な態度に、馬車の内であっかんべぇをしていたミリアは、父にぺちんと額を叩かれた。
「よいか、ミリア。宮廷では、我ら商人が、一番卑しい身の上である事を忘れるな!」
 押し殺した声で、釘をさされる。
「はーい」
 ミリアは小さく肩をすくめると、ちらりとカレナ城を顧みた。
(皇太孫殿下は、どうして、皇太子ご夫妻と一緒に住まないのかしら?)
 親子なのに変なの、と首を[ひね]る彼女をよそに、馬車は今度こそ目的地に着いた。
 神々が住まう、フラウ城の門前に。
「私は皇帝陛下にご挨拶申し上げてくるから、お前はここで大人しく待っていなさい」
「はい、お父様」
 父の言葉に、ミリアは厳かに頷いた。
 現人神であらせられる皇帝陛下は、本来、下々の者と顔を合わせることは無い。しかし、ハシリスの寵を受けるサウルは、特別に謁見を許されているのだ。それは幼いミリアにとっても、大いなる誇りであった。
(退屈だわ)
 控えの広間に一人取り残されたミリアは、きょろきょろと四方を見回した。
 顔が映りそうなほど、ピカピカに磨きこまれた床。ひんやりと佇む大理石の柱。見上げれば、建国神話を題材にした壮麗な天井画が広がっている。
「すごぉいっ!!」
 好奇心を抑え切れず、ミリアは上を向いたまま、広間の中を歩き回った。
 世界の創造主、至上神、ソルティマ。
 建国の英雄にして、皇家の祖である男神、イグラット。
 彼と行動を共にした伝説の剣豪、ピエラ・スゥオル。
 イグラットに紅玉を贈った暁の女神、ツェラケディア。
 栄光の陰、戦乱で命を落とした者を迎える冥王、ユウザリウス。
 中でも、ツェラケディアの美しさが一際目を引いた。
 少年のように、すんなりと伸びた手足、燃え盛る炎を思わせる深紅の髪、正面を睨むように見定める、紫水晶の瞳――。
「素敵……!」
 ミリアは、うっとりと呟いた。
 幼い頃から美しい物が大好きで、身辺を煌びやかに飾り立ててきた彼女にとって、この広間は天国そのものだった。こんなに秀麗な世界で日々を送れるのなら、奴隷生活も、そう悪くは無いかもしれない。
「ほぉ……わぁっ!?」
 ふわふわと夢見心地で歩いていたミリアは、突然、がくりと足を踏み外した。
 いつの間にやら広間を横切り、裏庭へと下りる階段まで来てしまっていたらしい。しかし、現状を把握したところで、重力には逆らえなかった。
「ひ〜やぁ〜っ!!」
 尻餅を着いたミリアは、色気のない悲鳴を上げながら、ずででででと、一番下まで滑り落ちた。
「痛ぁーい……」
 お尻を強かに打ちつけ、蹲っていると。
「何だ? 今の妙な悲鳴は?」
 木陰で男の声がした。
 それから、足早にやって来る気配がして……。
「おい、お前!」
 大きな、野太い声が飛んできた。
「何者だ!? どうやって城に入った!? ここで何をしている!?」
 矢継ぎ早、鋭い口調で咎められ、ミリアは慌てて首を振った。
 由緒正しきアンバス家の娘が不審者と間違えられ、あまつさえ、捕らえられたとあっては末代までの恥!
[わたくし]はサウル・アンバスの娘で、ミリアと申しますの! 決して、怪しい者では――!」
 素性を告げ、弁明しようと顔を上げた瞬間、ミリアはぎくりとした。
(まさか、この方は……)
 有難くもない予感と共に、目の前で仁王立ちする少年を、まじまじと観察する。
 ハッキリした目鼻立ちの、やや角張った面差し。短く刈りこんだ栗色の髪。猛々しい獣を連想させる、筋骨逞しい体付き。そして、腰に[]いた見事な大刀[だいとう]……。
「ああ、新しい II 種か」
 話は聞いている、と言って、少年は警戒の色を[]いた。鈍感なのか、それとも寛容というべきなのか、ミリアの無作法な視線を気にも留めない。
(……やっぱり)
 ミリアは一気に現実に引き戻された。あまりにも自分が思い描いた通りの御姿で、泣けてくる。
 およそ人≠轤オからぬ、武骨な皇太孫殿下――。
 決して、醜男[ぶおとこ]では無いけれど、ミリアの理想とする美麗な男性像の対極にあることだけは間違いなかった。
「来い。部屋まで連れて行ってやろう」
 殿下はくるりと背を向けると、ドスドスと歩き出した。
「え? でも、父が……」
 ミリアが躊躇[ためら]いがちに口を挟むも、聞こえていないのか、聞く気もないのか、さっさと先に行ってしまう。
(ええい、[まま]よ!)
 覚悟を決め、ミリアは小走りで彼の後を追った。
 案内された部屋は、これまで、ミリアが過ごしてきた広さの三分の一にも満たない、狭いものだった。しかし、南向きの日当たりの良い造りで、設えられた家具も、華美でこそなかったが、最高級の木材が使われている。
「しばらく、ここで休んでいろ」
 すぐに係の者を寄こすから、と言い残し、殿下は拍子抜けするほど素っ気なく出て行った。
「何なのよぉ、あの態度はっ!」
 ミリアは声に出して憤慨した。
 望まれて奴隷になった訳では無いけれど、せっかく奉公しにきたのだ。せめて、これからの訓示なり、励ましの一つも欲しかった。
 それに……。
「あーあ、つまんない!」
 ミリアは寝台の端っこに、ぽふんと腰掛けた。
 何よりも彼女を失望させたのは、皇太孫が少しも自分に関心を示さなかった事だった。
 あれほど理想と懸け離れた男性に求愛されたのでは、さぞかし迷惑だろうが、相手にされないのはもっと腹立たしい。彼の目は、とんでもない節穴だったのだ。もしくは、美的感覚が大幅にずれているかだ。
(……今日から、ここで暮らさなくちゃならないのね)
 主人の寵愛を受けるはず、という確固たる自信が崩れ去り、ミリアは急に心細くなった。
 優しい母や、口うるさいアリーを思い出し、早くも、家が懐かしくなる。ここにきてから、まだ一時間と経っていないというのに。
(お父様は、もう帰ってしまったのかしら?)
 ミリアがしょんぼりしていると、扉が軽く叩かれた。きっと、殿下に命じられてやってきた係の人間だろう。
「……はい」
 弱々しく返すと、扉が勢い良く開かれた。
「こんな所に居たのか」
 捜したぞ、と言って、真っ直ぐ歩み寄ってきた同年輩の少年。一目見た瞬間、ミリアは敏速に立ち上がり、彼の両手をむぎゅと掴んだ。
「私の I 種にしてあげるわ!」
 考える余裕すらなく、夢中で叫んでいた。
 名匠の手による工芸品かと思われるほど繊細で、秀麗な面立ち。硝子玉のように無機質な、澄んだ[みどり]色の双眸。逞しいというよりは、すんなりとして見映えの良い長身――。
 純粋に、欲しいと思った。
 人間臭さの感じられない、綺麗な人形みたいなこの少年を。
「一生、大事にするわよ!」
 ミリアが熱意を込めて掻き口説くと、これまで無表情だった少年の顔に、明らかな苦笑が浮かんだ。
「生憎だが――」
 声変わりの済んでいない伸びやかな次低音で、あっさりと拒まれる。人騒がせな女主人なら間に合っている、と。
「それじゃあ、あなたも、この城で飼われる奴隷なの?」
「……まあ、そういう事になるか」
 肩をすくめ、少年は曖昧に頷いた。その拍子、サラと落ちた前髪が、[つや]やかな光を返す。
「そう……」
 少年の手を名残惜しくも解放し、ミリアはがっくりと肩を落とした。ついさっき言い聞かされたばかりの、父の苦言を思い出す。
『宮廷では、我ら商人が一番卑しい身の上である事を忘れるな』
 アンバス家が、いくら宮人をも凌ぐ資産家であっても、彼らを差し置いて、主従契約権を独占する事は出来なかった。
 必要なのは、より高い地位。
 奴隷は金では買えないのだ――けれど。
「でも、まだ望みはあるわ!」
 もし、彼の主人が金で動くような下衆な人間だったら、付け入る隙はいくらでもある。立ち直りの早いミリアは、ぱっと瞳を輝かせた。
「あなたの飼い主は誰? 今すぐ手放すように、私が説得してあげる!」
 お金ならいっぱいあるんだから! と、意気込むミリアを見て、少年は苦笑いから完全な呆れ顔になった。
「馬鹿を申せ。我が主はイグラット帝国皇帝、ハシリス四世」
 お前は陛下[]の御心をいくらで買うつもりなのだ? と、一笑に付される。
「じゃあ、あなたは一生……」
「陛下のものだ」
 少年は揺るぎない眼差しで断言し、それから、思い出したように[きびす]を返した。
「――おい、娘御が見つかったぞ!」
 廊下に首だけを出して、声を張り上げる。
 それに応じて、ドタバタと慌ただしい足音が響いた。
 程なくして、開け放したままの戸口から、蒼ざめたサウルが飛びこんできた。
「ミリア!」
 涙ぐむ父に、強く抱きしめられる。
「まぁ、どうなすったの?」
 その大袈裟な様子に、さっきまでの自分を棚に上げ、ミリアはコロコロと笑った。お父様ったら、もう私が恋しくなったのね?
 その瞬間、特大級の雷を落とされた。
「この大馬鹿娘が!! お前が逃げ出したのかと思って、父は死をも覚悟したのだぞっ!?」
 大人しく待っていろと言ったのに勝手にうろつきおって! と、物すごい見幕で説教を始めた父を、しかし、ミリアは毅然として遮った。
「それは違いますわ!! この部屋には、皇太孫殿下がお連れ下さったんですもの!」
 裏庭に出てしまったのは自分の落ち度だと思うが、悪くない事まで咎め立てされては適わない。
「殿下が?」
 ミリアの言葉に、サウルは狐につままれたような顔をして、隣の少年を見た。その視線に、彼が無言で首を振った時。
「――おや、ユウザ様」
 執事の腕章を付けた初老の宮人が現れた。こんな所で、如何なさいました? と、首を傾げる、その後ろから――。
「あっ、殿下!」
「ナザル、この娘を連れてきたのは、お前か?」
 ミリアと少年の声がかぶった。
「ええ。裏庭に一人でおりましたので」
 先程のつれない態度は何処へやら、皇太孫殿下は朗らかな顔で頷き、少年の足元に膝を着いた。何か不都合でもございましたか? と、恭しく[こうべ]を垂れる。
 ……おかしい。
「この粗忽者[そこつもの]。主従契約どころか、顔すら合わせぬ内に娘が居なくなったので、ちょっとした騒ぎになっていたのだぞ?」
 大人びた口調で、殿下を[たしな]める少年。
「えっ!? [わたくし]はてっきり、もう済んだものだと……!」
 オタオタと少年に言い訳を始める皇太孫殿下。
 何かが、決定的におかしい。
 皇帝陛下の寵愛を受ける奴隷は、皇孫よりも偉いなんて事があり得るのだろうか? 否、そんな話は聞いた事がない。
「う〜ん」
 ミリアは小さく唸った。
 何か、根本的な所から間違えている気がする。
(あの方は、本当に皇太孫殿下なの?)
 頭の中に、ぽわんと浮かんだ疑念。晴らしてくれたのは、老執事の一言だった。
「――では、早々にご契約なされませ。もうすぐ、おやつの時間ですからね」
 眉尻を下げて、ミリアに目配せする。この娘をユウザ様の御茶小姓に任命しましょう、と。
「ユウザ様の御茶小姓……」
 ミリアは口中で繰り返した。
 それが自分の仕事だという事は……?
「あなたが皇太孫殿下だったのね!?」
 ミリアは顔をほころばせた。
「それじゃあ、私、お嫁さんになってあげる!」
 少年の手を取り、高らかに名言する。
 荒々しく、無粋な剣士だとばかり思いこんでいた皇太孫殿下。それが、自分の奴隷にと望んだ、この麗しい少年だったのだ。
 彼が相手なら、奴隷と飼い主≠ネどという、ちゃちな主従関係で結ばれるより、生涯を共にする[主人]≠ニして傍にいてくれる方が、ずっといい。
 我ながら素晴らしい提案だわ、と大満足のミリアだったが、手を取られた本人及び周囲の者たちは、皆一様にポカンとしていた。
 やがて――。
「これ、ミリア!!! 皇太孫殿下に何というご無礼を!」
 逸早く我に返ったサウルが、ミリアの後ろ頭をスパンと叩き、そのままの勢いで、無理矢理、床にねじ伏せた。
「申し訳ございません、殿下!」
 首がっ、首が痛いですわぁっ! と、もがくミリアを押さえつけつつ、隣で、ぺったりと土下座する。愚か者の妄言と、何とぞ、捨て置き下さいませ!
「全く、聞きしに勝る自惚れ屋だな」
 皇太孫殿下は喉の奥で低く笑うと、構わぬ。[おもて]を上げよ、とアンバス父娘に命じた。
(もう! お父様ってば、乱暴なんだから!)
 痛む首を[さす][さす]り、ミリアが身を起こすと、殿下と目が合った。そして、そのまま[]らせなくなった。
 感情の読めない、何処までも澄んだ緑眼。
 だけど、その切れ長の瞳をわずかに細め、自分を見下ろしている顔には、先ほどまでの硬質な美しさとは異なる、物柔らかな微笑が浮かんでいた。
(……何て、優しい顔をするのかしら)
 ミリアは胸の前で両手を組んだ。
「確か、ミリアと申したな?」
 殿下の問いかけに、夢うつつで頷く。いつもより、鼓動が速く、強くなっていた。
「――では、ミリア・アンバスよ。イグラット皇家三代、ユウザ・イレイズの名において命ずる。今、この時より、お前は私の II 種だ。お前が私に忠義を尽くす限り、お前の望むもの全てを与える事を、ここに誓う」
 とても子供とは思えない厳粛さを纏い、殿下は、良く通る淡々とした声で主従契約の口上を述べた。
 そして――。
「サウル・アンバスよ。御息女の命、確かに預かった」
 平伏[ひれふ]したままのサウルに穏やかな微笑を向ける。安心して商いに励むがよい、と。
「有り難き幸せにございます」
 サウルは目に見えて安らかな顔になると、もう一度、深く頭を下げた。その[まなじり]には、わずかながら涙が滲んでいる。
(お父様……)
 ミリアは、こんなにも無防備なサウルの姿を初めて見た。
 家長として、大店の主として、いつも堂々と皆を率いてきた父。それが今、年端も行かぬ少年の言葉に胸打たれ、涙している。
『お前を皇太孫殿下にお預けしようと思う』
 皇帝陛下でも皇太子殿下でもない、皇太孫殿下に。その意味が、何となく判った気がした。
 父は男として、この少年に惚れこんでいるのだ。
「――さて、もう十五時を過ぎたな」
 殿下は金色の懐中時計をちらりと覗くと、再び、ミリアをふり返った。
「ミリア、早速、美味い茶を淹れてくれ」
 唇の[はし]を軽く引き上げ、初めて少年らしい♀轤ナ笑う。お前を捜し歩いた所為で、喉がカラカラだ。
「はい、殿下!」
 ミリアは元気良く頷いた。
 自分より身分の高い者に請われれば、何人といえども、その者に隷属しなければならない――。
 それが、この国の掟。
 だけど、自分は望まれて奴隷になった訳じゃない。
 だからこそ、誓う。
(私は、私の意志で、立派にお仕えしてみせるわ)
 人ではない、神の血を引く皇太孫――我が、麗しの君だけに!
終   - 2004.03.25 -

POSTSCRIPT

* 反転させて読んで下さい。
『奴隷 I 種』 番外編、第五弾です。
今回のお題は「ミリア視点の物語」でしたので、ユウザとミリアの出会いを書いてみました。そして、気づきました。
「ミリア視点」は難しい! っていうか、キャラが動かし辛い! これは多分、作者が一番感情移入しにくいキャラだからなのでしょう。
何たって、大富豪のお嬢様の心情を、極貧の作者が描いている訳ですから、そりゃあもう、無理が見え見えです(^^;
脇役(本編)の時は、サクサク動いてくれるんですけどねぇ……。
そんな訳で、こんな感じに仕上がりました。
歌帖楓月様、大変長らくお待たせ致しまして、申し訳ありませんでした。そして、こんなヘタレな作者に優しくお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました!
神沢 青
 
NOVEL || HOME | BBS | MAIL