For.
香月碧 様 - 御礼 :
イラスト
* この作品は、本編・第12話、「
奇禍の夜」の続編です。
闇の中。
目を瞑ると、余計、五感が研ぎ澄まされた。
規則正しく繰り返される、深い呼吸。寝返りを打つ度に揺蕩う、洗い髪の甘い芳香。シーツを滑る娘の爪先が、ささやかな――しかし、無視できない程の存在感を伴なって、するすると衣擦れを立てる。
もう、限界だ。
無理に閉ざしていた瞼を開き、ユウザは長椅子の上に半身を起こした。闇に溶け込みそうな漆黒の髪を、さらり、と掻き揚げ、小さな溜息を漏らす。
船上の夜、寝惚けたサイファが彼の寝床に闖入してきたのは、今から半時ばかり前のこと。
年頃の、それも恋仲でもない娘と褥を共にする訳にもいかぬので、長椅子への移動を余儀なくされたのだったが……。
(これは、何の咎だ?)
すっかり冴えてしまった頭で、ユウザは己が身に降り懸かった災厄を嘆いた。
健全な青年の性として、一瞬、気の迷いが生じた事は否めない。しかし、一成人男子としての自分は、無防備な女性に無体な真似を働くほど、恥知らずでは無いつもりだ。だから、こうして寝台を追い出され、長椅子で夜を明かさねばならない不条理も、紳士の嗜み、と甘んじよう。
だが、理性で己を律しても、抑え切れないのが本能というものだ。頭では、その気がなくとも、五感が勝手にサイファの気配を追い求めてしまう。あたかも、心と体が別たれたように。
ユウザは重ねて溜息をこぼした。寝台で蠢く人影を極力視界に入れないよう努めながら、テーブルに置いたままの酒瓶に手を伸ばす。
(栓を抜いておいて良かった)
拙い星明りと勘を頼りに、そっとゴブレットに注ぐ。
白葡萄の爽やかな香気は、心持ち、波立つ神経を宥めてくれた。一口含んで、ゆっくりと飲み下す。
『この酒、美味いな』
ふいに、幻聴のように、サイファの声が耳に蘇った。
あれは、つい二、三日前の事だったか。
夕餉の席、銀の杯を軽く掲げ、サイファは青玉の瞳を柔らかく細めた。それは、囚われの城内で、彼女が初めて見せた笑顔だった――と、ユウザは記憶している。
サイファが城で飼われるようになったその日から、毎晩、必ず一度は、彼女と顔を合わせてきた。だが、その全てが憂いを帯びた仏頂面で、この容が和やかに笑めば、さぞ華やぐだろうに、と何度思ったか知れない。
果たして、その思惑は正しかった。
盃を片手に微笑む、美貌の奴隷。
さすが皇帝の目に止まっただけの事はあった。不遜な空気を漂わせ、小生意気な口をきくのが悪女≠フ美なら、些細な喜びに心から感じ入り、屈託なく笑む様は、さながら穢れを知らぬ聖女≠フよう。
(……少しは打ち解けてきた証拠か)
ふっ、と我知らず微笑して、ユウザは乾し終えた杯を静かに置いた。再び、寝椅子に体を預ける。
どうせ、眠れはしない。
濃い闇の中、ひたすら明けの明星を待ち焦がれる。
夜明けまで、あと数刻。
*
絹の寝間着をするりと脱ぎ落とし、ユウザは平服に袖を通した。宝玉の連なる飾り帯を締め、腰に長剣を佩く。
「まだ、日は昇らぬか……」
細く開けたカーテンの隙間から外を覗き、独り言ちた。
空が白み始めたら、部屋を出ようと思っていた。眠れぬ時を、ただ悶々と、息を詰めて過ごすのは、もう、うんざりだ。
部屋には相変わらずサイファの気配が満ち満ちており、その安らいだ寝息が、微笑ましくも厭わしい。
(人の気も知らずに)
ふと、恨みがましい一瞥を寝台に投げかけた時、薄闇に、うつ伏せで寒そうに手足を縮こませた彼女の姿が浮かんで見えた。あまりの寝相の悪さに、包まっていた上掛けが床に垂れ落ちている。
(子供でもあるまいに……)
風邪を引くだろうが、と苦笑して、ユウザは拾い上げた上掛けを掛け直してやった。すると、温みが戻って安堵したのか、サイファは、ごろんと大きく寝返り、仰向けになった。
何か、良い夢でも見ているのかもしれない。柔らかな曲線を描く瞼は、しっかり閉じていたが、心なしか、口元が綻んで見える。
「私から奪った寝台は、そんなに寝心地が良いか?」
皮肉混じりに囁き、ユウザは彼女の枕元に腰掛けた。手をついた拍子に、寝台がギシリと軋む。
夜は眠れない、と吐き捨てるように言ったサイファ。
しかし、今夜の彼女の眠りは、実に深かった。むしろ、深すぎる。
声をかけても、肩を揺すっても、全く目を覚まさない。まるで、御伽噺の呪われた姫君のように。
ユウザは、その安心し切った寝顔をつくづく眺めた。そして、ほとんど発作的に彼女の額に唇を押し当てる。
「何をやっているんだ、私は……」
ハッと我に返り、己を責めたが、胸に残るは、後悔より満足。先程までの焦燥感が、嘘のように消えている。
(……まぁ、これで、あいこ……だな)
眠れぬ夜の代償。これぐらい大目に見てもらわねば、とても割に合わない。
ユウザは、もう一度、窓辺に立った。カーテンを捲ると、か細い光が藍色の空にようやく射し始めたところ。
間もなく、夜が明ける。
衣桁に掛けておいた外衣を掴み、部屋を出る間際、ユウザは、ちらりと寝台をふり返った。
薄倖の美姫を醒ますのは王子の口づけ≠ニ、古今東西決まっているが――暁闇の眠り姫は、未だ夢の中。
終 - 2004.12.10 -
POSTSCRIPT
* 反転させて読んで下さい。
『奴隷 I 種』 番外編、第六弾でございます。
今回のお題は、「第12話で寝台を追い出されたユウザが、まんじりともせず一夜を明かす様子を」との事でしたので、「番外編」というよりは「続編」という形になりました。
さて、自称「紳士」だった筈の、ユウザ・イレイズ。
眠っている女性に手を出すほど腐っていない、と偉そうに自負していた癖に、最後の最後で我慢が切れるというヘタレ振りです。挙句、「あいこ」と開き直りやがりました(^^;
お前、それでもヒーローか? と、突っ込まれても仕方ありません。ヒーローにあるまじき醜態です。
……とはいえ、日頃、忍耐に次ぐ忍耐を強いられている彼です。おでこにキス≠ュらい、ちょっとした「ご褒美」と、大目に見て頂けると嬉しゅうございます。どうせ、
被害者も気づいてませんし(笑)。
そんな訳で、短いですが、こんな感じに仕上がりました(^^) 碧様の愛≠ノ、お応えできていれば良いのですが(笑)。
神沢 青