Written by Ao Kamisawa.
『奴隷 I 種』
For. メルマガ読者 様 - メルマガご愛読感謝企画 :1st
番 外 編  花吹雪[はなふぶき]
 自分の力で糧を得られるということは、何と幸福なことだろう。
 一介の猟師として、当たり前のように働き、当たり前のように生活していた頃は、考えてもみなかった。
 いつか自分が、その職を失い、他人に養われる日が来ようとは。
 ましてや、その方法が――。
「テラ! ご飯よ!」
 重たい木箱を右肩に担ぎ、丸めた絨毯を二、三本、左の小脇に抱えた男は、勝手口から名を呼ばれ、我に返った。
 馬車に積まれた荷物を、ただ黙々と倉庫へ運び込むという単純労働は、あまり神経を使わずに済む分、つい余計な事を考えてしまう。
「これを運んだら、すぐ行くよ!」
 声をかけてくれた小女[こおんな]に、ありがとう、と笑顔を返すと、娘は、はにかんだ笑みを残して戸内[とうち]に消えた。
 彼の低くかすれた声音[こわね]は、年増の女たちからは色っぽい≠ニ喜ばれ、年下の幼なじみには何か企んでるみたいだ≠ニ言わしめた、色々な意味であやしい美声である。
 テラ・ムスカル、十九歳。
 十五歳で成人と見なされるイグラット帝国においては、既に一人前の男≠ニ呼ばれて久しい、偉丈夫だ。
 その立派に一人前であったはずの彼が、狩猟中の事故が元で、右目と、猟師という職を奪われたのは、今から四ヶ月ほど前のことになる。
 あれは盛夏の夕間暮れ、幼なじみであり、弟子でもあった少女と一緒に、狩りに出かけた帰り道だった。二人は、運悪く、熊の親子に遭遇してしまった。全くの不意打ちで、応戦する余裕など微塵もない状況。背後から襲われそうになった連れの少女を、振りかぶる母熊の爪から庇うだけで手一杯だった。
 そうして、幼なじみの身代わりとなった結果、顔の右半分に大怪我を負ったテラは、醜い爪痕が人々を怖がらせないよう、長く伸ばした赤銅色の前髪で傷を隠した。そのため、今でも、顔の左半分だけを見て、彼を美男と評するものは少なくない。
 しかし、見た目はうまくごまかせても、隻眼のせいで思うように動けない苛立ちは、どうしようもなかった。周囲に当り散らす訳にもいかず、不機嫌に黙り込む日々が続き、そんな己の不甲斐なさがまた嫌で、独り鬱々としていたところへ、隣町、ルファーリに住む飲み友達が訪ねてきてくれた。
 成人して間もない頃、酒場で知り合った商家の主人、ハナイ・ヴァンテーリである。
 彼とは、親子ほど歳が離れているが、好む酒の種類も、笑い上戸になる飲み方も似ていて、一緒に飲むと、ひたすら愉しかった。また、どちらもざる≠セったから、二人で飲み明かすこともしばしばで、互いが互いを一番の飲み仲間と信じて疑わなかった。
 そんな、親友と言っても過言ではないハナイが、唯一の特技を失い自暴自棄になりかけていたテラに、大胆な申し入れをしてきた。
『三食昼寝付きの我が家で、快適に飼われてみる気はないかね?』
 おやつも出すよ、と素面で――。
 だが、それは決して洒落などではなかった。
 厳格な種姓制度がはびこるこの国には、神々の血を継ぐ皇統と共に、開闢[かいびゃく]以来、連綿と続いている為来[しきた]りがある。
 それは、自分より身分の高い者に請われれば、何人といえども、その者に隷属せねばならない――という、一風変わった奴隷制度だ。
 天与の美貌を以って主の心を慰める、上級の I 種。身の回りの雑事をこなす、中級の II 種。労働力として肉体を酷使する、下級の III 種。
 用途に応じて三つの身分に分けられた奴隷たちは、主人の許しを得られる日まで、延々と心身を拘束される。その間の、衣食住の保障と引き換えに。
 そんな奴隷になってみないか?≠ニ、ハナイは言ったのだった。
 友人であったはずの、テラに。いや、友人だったからこそ……。
『お前さんが飽きて、もう私の顔など見るのも嫌になるまで、一緒に飲んだくれてみようじゃないか。私には、お前さんを一生食わせてやれるだけの甲斐性と、一生かかっても飲みきれないほどの酒樽がある』
『……肴もありますかね?』
『もちろんだとも!』
 この国で、何千回、何万回と交わされてきた主従契約の口上として、自分とハナイの間で交わしたものほど珍妙なものは、かつて無かっただろう、と、テラは苦笑混じりに思い返す。
 働くことが困難になった自分を助けてやる≠ニは言わずに、奴隷になれ≠ニ言ってくれたのは、ハナイの温情だった。命令≠ニいう止むを得ない形で、上手に自尊心を破壊してくれた彼に、テラは密かに感謝している。
 しかし、形ばかりの I 種として気ままに暮らせばいいよ、というハナイの厚意だけは、丁重に辞退した。
 今は、片目になったばかりで何をするにも違和感を伴うが、それにも、いずれ慣れるはずである。だから、真の意味での施し≠ヘ受けない。例えそれが、自分を最も低い身分へ貶めることとなっても。
 こうして、テラはハナイの奴隷となった。最下級の III 種として。
「はい、テラ。今日も大盛りにしといたわよ!」
 食事を運んできてくれた炊事係の女は、片目を瞑って、にっと笑った。八歳と十歳の子供がいる彼女は、逞しい腕と明るい笑顔が印象的な、肝っ玉母さんといった風情だ。
「ありがとう、マリ。気風[きっぷ]のいい女は大好きだよ」
 料理が山盛りになった皿を両手で受け取りながら、テラも残る左目で[まばた]きを返す。
「あら、ずいぶん嬉しいことを言ってくれるわね」
 テラの軽口に、あはは、と大口を開けて笑うと、マリは、ごゆっくり、と言って、忙しそうに炊事場に戻って行った。彼女には笑い飛ばされてしまったが、サッパリとしたマリの気性を、テラは気に入っている。
 ハナイが取り仕切っている魔石問屋、ヴァンテーリ商会は、地方都市ルファーリでは、一番の大店[おおだな]である。屋敷の一角に店舗を構え、百名近い住込みの使用人を抱えている。奴隷の数は、その半数以下で、他の商家と比べると格段に少ない。賃金の発生しない奴隷を多く使った方が安上がりに決まっているが、あえて、そうしないのは、必要な労働力すら自力で確保できないような商売なら最初からやらない方がマシだ、というハナイの信条からである。
 ハナイが奴隷として召し抱えている人間は、そのほとんどが、テラのような訳あり≠セった。自活できないほど金に困っている者、身寄りのない者、自分から庇護を望む者……事情は様々である。
 しかし、彼らには、たった一つだけ共通点があった。それは、全員がハナイの眼鏡にかなった$l物である、ということだ。
 奴隷に限らず、ハナイが集めた使用人たちは、いずれも心根の良い人間が多かった。だから、これほど大きな店であっても、従業員同士の揉め事は少なく、却って、まとまりがある。
 穏やかで平坦な毎日を送るには、ここは絶好の場所だった。ただ一点、色恋沙汰をのぞいては――。
「いただきます」
 食前の祈りを捧げてから、テラは器に手を伸ばした。温かいスープが、疲れた体に優しく染み渡る。
 しばらく夢中で食べ物を口に運んでいると、皿の上に影が差した。顔を上げるのと同時に、娘の声が降ってくる。
「お疲れ様。葡萄酒はいかが?」
 先ほど、自分を食事に呼んでくれた小女が、にっこり笑って酒壺を掲げてみせた。色白で、ふっくらとした、砂糖菓子みたいに愛らしい少女だ。
 栗色の豊かな髪を一つに束ね、お仕着せの白い前掛けをした姿は、清潔で瑞々しい。名を、ターナという。
「いいね」
 頷いて、杯を差し出すと、甘い香気と共になみなみと酒が[そそ]がれた。
 労働後の一杯のために私は生きている! と、大真面目に公言しているハナイの方針で、使用人であろうと奴隷であろうと、ヴァンテーリ家で働く者たちは、休憩中に気付[きつ]けの一杯を振舞われた。どこまでも気前の良い親仁[おやじ]である。
「食事が終わったら、また荷運びに戻るの?」
 食事を続けるテラの横で、ターナは小首を傾げた。手にした壺を胸に[]く。
「いや、もう終わったから」
「じゃあ、もう休める?」
「残念ながら、旦那さんのお供で外回りだ」
 首をふりふり肩をすくめると、ターナは、明らかにガッカリした顔になった。
「何か、俺に用でもあったのかい?」
 匙を置き、テラは改めて娘の顔を見つめた。それだけで、ううん、と首を振った彼女の頬に朱が走る。
 まいったな、と思った。
 この少女が自分に好意を――恐らくは恋心を[いだ]いていることには、前々から気づいていた。純朴で真面目な彼女は、可愛いと思う。
 でも、それだけだ。
 テラには、他に愛した女がいる。
 将来を誓ったわけでも、相思相愛でもない、こちらから一方的に愛情を捧げる女が。
『テラの声は、胡散臭いよ。何か企んでるのが見え見えだ』
 いつだったか、お前を愛している、と冗談めかして伝えた時、真顔で返されたのがこの台詞だった。いくら軽い調子を装ったとはいえ、あまりにも伝わらなさ過ぎて、泣けてきたのを覚えている。
 鈍感で真っ正直な、幼なじみのサイファ・テイラントは、テラより三つ年下の十六歳だ。銀髪に青い瞳が人並み外れて美しく、物心ついた時には、既に掛け替えのない存在だった。
 彼女を四六時中傍に置いておきたくて、自分のもてる限りの射術を教え、熊に襲われそうになったその身を守るため、己の右目を引き換えにした。
 この世で一番欲しくて、でも、絶対に手に入らない、最愛の少女。
 彼女を助けるために自分が犠牲になった事実を、テラは何があっても悟らせたくなかった。己の存在自体が愛する女の負担になるなんて、自尊心が許さなかった。
 しかし、そう思う反面、自分の弱さが、いつ真実を口走ってしまうか、気が気でなかった。誇りなどかなぐり捨ててでも、サイファを手に入れたい。そう願ってしまう、卑怯な自分がいることに、テラは気づいていた。
 手遅れにならない内に、彼女から離れなければならない。その為にも、ハナイの奴隷として生きることは都合が良かった。
 だが、思惑とは裏腹に、テラがヴァンテーリ家に身を寄せるつもりだと伝えた時、サイファは散々反対してくれた。
『テラの面倒くらい、あたしが見てやるよ!』
 だから、行くな。奴隷なんぞになるな、と。
 しかし、その想いだけを受け取って、テラは故郷の村を後にした。それ以上を望むことは、際限を失うことと同じだった。
「テラ、ちょっといいかしら?」
 そこへ、別の女の声が割って入り、テラはハッとした。見ると、気の強そうな目元が魅力的な、年増の女が立っていた。テラとは顔なじみの、古参の使用人である。
 またしても、ぼんやり考え込んでしまっていたらしい。同じく、俯いていたターナも、小さく肩を震わせた。
「何だい?」
「ここでは、ちょっと……ね?」
 ちらりと、ターナを気にするようにして送られた秋波に、テラは内心苦笑した。この屋敷に来てからというもの、一夜[いちや]の相手に事欠かない。
「わかった。後で行くよ」
 軽く手を上げ、テラが目で頷くと、女は[えん]に笑って立ち去った。
 奴隷は、使用人の命令には逆らえない。もっとも、逆らうつもりもなかったが。
「ごちそうさん、ターナ」
 美味かったよ、と空になった杯を持ち上げ、テラは席を立った。何か言いたげな少女を残して、食器を下げに行く。
 冷たい男だ、と思われているかもしれない。でも、ターナの想いには応えてやれない。
 世慣れた熟女の火遊びなら喜んでお相手するが、初心[うぶ]な小娘に罪な夢を見せるつもりはなかった。
 幼いほど若い彼女には、恋に対する希望も、可能性も、山ほどある。心の奥底に特定の女を住まわせているような男ではなく、もっと自分だけを見てくれる相手を探すべきだ。
 []、更けて。
 屋敷の一隅にある倉庫裏、今はほとんど使われていない納屋の内に、小さな角灯に照らされ、淡く揺らめく二つの影があった。
 嵌め殺しの小窓から注ぐ月光が、女の円やかな裸身を闇に浮かび上がらせている。その白い肌に唇を寄せ、テラは幾つもの花弁[かべん]を散らした。
 薄紅[うすくれない]の、一夜[ひとよ]限りの徒花[あだばな]
 仄暗い建物の中、女の喉から、浅い吐息がひっきりなしにもれる。
 そんな風に、求められるまま女への愛撫を施しながら、テラは、今も別なことを考えていた。
 他の男がどうかは知らないが、自分にとっての愛欲は、完全に心≠ニ体≠ェ分かたれている。
 サイファを想う心を宿した体で、こうして別の女を抱いているのだから、これはもう、疑いようのない事実だ。
 それどころか、たった今、この女にしているのと同じ[けだもの]じみた姿でサイファを抱くことを想うと、どうしようもない背徳感がわいてきた。愛する女に、こんな[みだ]らな真似をしてはいけない、と。
(バカなことを……)
 虚しさが胸にこみ上げるのと同時に、下肢から耐え難い衝動が駆けのぼってきて、テラは激しく女を駆り立てた。
 サイファの面影はかき消え、欲望を満たすことしか考えられなくなる。
 もう少し、あと少し――。
 奔放に乱れる女を、高みを目指してめちゃくちゃに突き上げ、低い呻きと共に、迸る熱を一気に放つ。
 雲が月を隠したのだろうか。窓から差し込んでいた光が、少し欠けた。
 テラは、女の上に覆いかぶさったまま、荒い呼吸を整えた。精を吐き出した充足感だけが、頭と体を占めている。
「テラ……」
 気だるく甘い声でキスをねだる女に、応えてやりながら、テラは、ふいに優しい気持ちになった。
 互いに心の伴わない行為の中に、確かに一時[いっとき]、通じ合う瞬間がある。嘘偽りなく、愛しい、と思える瞬間が。
 しかし、そう思う傍から、無性にサイファに会いたくなった。
 抱きたい訳じゃない。ただ、彼女の存在を身近に感じていたかった。
(今ごろは、もう夢の中……かな)
 樹海に覆われた故郷[こきょう]、ディールの漆黒の空が、脳裏を過ぎった。丸太でできたサイファの家が、深更の闇に包まれ、にじんでいく。
 女の頬に貼りついた髪をかき上げてやりながら、体の向きを変えた時だった。ふと、誰かの視線を感じた気がして、テラは窓辺に目を遣った。
 そして、思わず息を呑んだ。
 小さな明かり取りから覗く二つの瞳と、ごまかしようもないほど、しっかり目が合う。大きく見開かれた少女の――ターナの双眸と。
 しくじった。
 テラが上体を起こしたのと、窓から人影が消えたのが、ほとんど一緒だった。遮っていたものがなくなり、欠けていた光が再び満ちる。
「テラ?」
 どうしたの? と、訝しむ女に、テラは、何でもない、と答え、薄い絨毯一枚を敷いただけの、仮の[しとね]に寝転んだ。
 追うべきではないと、わかっていた。これで、彼女も愛想を尽かすだろう。
 翌日。
 事件が起きていたことに皆が気づいたのは、朝餉の支度が始まる頃だった。
 時間になってもターナが起きてこないというので、マリが彼女の部屋へ様子を見に行った。だが、寝台はもぬけの殻で、室内の何処にも、少女の姿はなかった。
 奴隷なら未だしも、使用人として雇われているターナが、脱走を企てるとは考えにくく、事故か事件にでも巻き込まれたのではないかと、屋敷内は騒然となった。
「とにかく、店は開けなければならない。まずは、いつも通りに開店の準備をしておくれ。後は、店番の者以外、手が空き次第、ターナを探しに行ってほしい」
 眉を曇らせたハナイは、店の者たちにそう指示するや、恰幅の良い体を揺らして、真っ先にターナの捜索に向かった。
 とても商家の主らしからぬ行動だったが、誰も気に留めなかった。それは、ある意味、とてもハナイらしい行為だった。
(何も、家出するこたぁないだろうに……)
 皆に混じってターナを捜し歩きながら、テラは、密やかな溜め息をもらした。
 失踪の原因は、恐らく昨夜[ゆうべ]のアレ≠セろう。
 思春期の少女が、あんな場面を見てしまい、激しく動揺したのはわからないではないが、見られたこちらの立場にもなってほしいぞ、と心中でぼやきつつ、屋敷の裏手へ回った時だった。ふと思い立って、テラは、女との密会に使った小屋へと足を向けた。
 昨日、あのまま屋敷を出たのなら、何か手がかりが残っているかもしれない。ダメもとで、現場へ向かってみる。
 しかし、世の中、そう甘くはないようで、建物の周りには、足あと一つ残されていなかった。
(他に、あの子の行きそうな場所って、言われてもなぁ……)
 自分が、ターナについてほとんど何も知らないことを、まざまざと思い知らされる。そして同時に、彼女も、自分のことなど何一つ知らないだろうと思った。
「ちっ、仕方がねぇ」
 こうなったら片っ端から調べてやらぁ! と、一人[うそぶ]き、テラは再び歩き出した。倉庫の中、家畜小屋、道具置き場……目に付いた場所から、虱潰[しらみつぶ]しにあたっていく。
 そうこうする内に、裏山へと抜ける小道に差し掛かった。ヴァンテーリ家所有の、小さな里山である。
(一応、行ってみるか……)
 薪拾いや茸狩りなど、何かと足を運ぶ機会も多い山林だが、冬も間近となったこの季節では、滅多に立ち入らなくなっている。
 落ち葉や枯れ枝を踏みつけながら、テラは緩い勾配を登って行った。ザクリザクリという乾いた足音が、澄んだ晩秋の空へと吸いこまれていく。
「ターナ! 居ないのか?」
 立木の間を縫うように歩きながら、テラは大声で呼びかけた。すると、微かに応える声を聞いた――ような気がした。
「ターナ?」
 もう一度、半信半疑で呼びかけ、じっと耳をそばだてると、確かに、か細い声がする。助けて、と。
「ターナ! 何処だ!?」
 茶色く枯れ果てた草をかき分け、テラは声のする方へと走った。こうして野山を駆けるのは怪我をしたあの日以来だ、などと、関係ないことが頭を過ぎる。
「助けて! ここです!」
 ターナの涙声が、崖のように小さく切り立った岩陰から聞こえた。見ると、地盤の一部が大きく崩れ落ちた形跡があった。
 テラは四つん這いになり、そっと崖の下を覗きこんだ。涙で頬を濡らしたターナが、こちらを見上げているのが目に留まる。
 しかし、互いに相手を認識した瞬間、少女の顔が目に見えて引き攣った。
「待ってろ! 今、行――!」
「来ないで!!」
 テラの声を遮るように、ターナが叫んだ。聞き分けのない駄々っ児みたいに、ただ、来ないで、来ないで、と泣きながら繰り返す。
「馬鹿野郎! そんな悠長なこと言ってる場合か!!」
 泣きじゃくる少女を一喝し、テラは足場を選んで岩陰へ降り立った。
「大丈夫か?」
 怪我は? いつから、ここに居るんだ? と、矢継ぎ早に問いかけても、ターナは首を振るばかりで答えなかった。助けに来たのが自分だったのが、よほどお気に召さないらしい。
 小刻みに震える少女の体は、しっとりと夜露に濡れていた。どうやら、一晩中ここで過ごしたようだ。
「どこか、怪我してるんだろ? 見せてみろよ」
 素直に応じる訳もないかと思いつつ、テラは声をかけた。案の定、ターナは唇を真一文字に引き結び、[かぶり]を振っただけだった。
「じゃあ、仕様がねぇな」
 意地悪く片眉を吊り上げ、テラは嫌がる彼女を無理やり検分した。初めは暴れたターナも、痛みに耐えかねたのか、途中で抵抗するのをやめた。
 調べた結果、右足と左手首を捻挫しているのがわかった。赤黒く腫れ上がった様子が、何とも痛々しい。
「こいつは、ひでぇや」
 痛かったろう? と、眉を寄せつつ尋ねると、ターナは何も言わずに俯いた。その拍子に、瞳に溜まっていた大粒の涙が、ぱたぱたと膝にこぼれ落ちる。
「とにかく、屋敷に戻ろう。早く手当てしねぇと」
 テラは、座りこんだままの少女に、背を向けて屈んだ。
「ほら、俺の背中に負ぶさりな」
「イヤ……」
 蚊の鳴くような声で、ターナが拒絶の意を示す。
 テラは、少女に向き直った。
「俺を、汚いと思うのかい?」
 静かに、問いかける。ターナの肩が、小さく震えた。
「まあ、否定はしないけど、悪いことをしているとも思っちゃいねぇよ」
 テラは薄っすらと微笑んだ。どうせ、恋に恋する少女には理解されまい。
「悪いわ!」
 テラの言葉に、ターナが敏感に反応した。
「あの[ひと]には、旦那様がいるのよ!?」
「ああ、そうだな」
 テラはけろりと頷いた。
「あの世に住んで久しい旦那が、な」
「え?」
 ターナは目を丸くした。空色の瞳を大きく見開いた表情が、サイファの幼い頃を思い出させる。
「俺は体を貸してやってるだけだ。彼女は自分の心の寂しさを、俺の体で埋めてるのさ」
 あの女ばかりではない。自分に抱かれたがる女たちは、皆、自分の体のみを必要としていた。
 彼女たちの心の中には、別に愛する男がいるのだ。自分の中に、他の女が居るように――。
「俺が相手にするのは、心を差し出せ、と強要しない女だ。だから――」
 お前さんみたいな女には、応えてやらない。
 テラは、おどけたように両肩を持ち上げると、再度、ターナに背を向けた。さ、早く。
 ターナは、大人しくテラの傍までにじり寄り、その首に両腕を回した。凍えた体は、相変わらず震えている。
 テラは、ゆっくり立ち上がると、膝で弾みをつけ、彼女をきちんと背負い直した。それから、低い崖をよじ登る。
「……あなたは、何もわかっていないのね」
 テラの背中に体重を預けながら、ターナがぽつりと呟いた。
「みんな、あなたの体が目当てだと言ったけど、そんなのは思い違いだわ。心≠ェ手に入らないとわかっているから、せめて体≠セけでも欲しいと思うのよ……」
 私だったら、そうするわ、と吐息のように囁かれた言葉を、テラは聞こえなかったことにした。
 想いに応えてやれないことを謝るのは、傲慢な筋違いだ。
 その時、ひらり、と小さな白い物体が目前を横切っていった。
「あら、雪?」
 すっと右の掌を[うわ]向けて、ターナが天を仰いだ。そこへ、また一枚[ひとひら]、肩先に舞い落ちたものを見て、テラは首を振った。
「いや、花びらだ」
 辺りを目で探すと、貧相な枝ぶりの冬桜が、健気に花を咲かせていた。一重[ひとえ]の、雪のように可憐な小花が、風に乗って流れていく。
「きれい……」
「ああ」
 青碧[せいへき]の空を揺蕩[たゆた]花弁[かべん]を見上げ、テラは目を細めた。
 この花たちは、一体、どこへと行き着くのだろう?
 それから、四ヶ月後。
 季節は流れ、裏山には春の桜が咲き乱れた。
(いい陽気だ……)
 降り注ぐ柔らかな日差しを左の頬で味わいながら、テラは大きな欠伸をもらした。こうして、野山に分け入り、のん気に山菜摘みなどしていると、うっかり居眠りしそうになる。
「ダメよ、テラ! 欠伸なんかして、さぼってちゃ!」
 うるさい目付け役の少女が、山の幸を入れた籠を片手に、テラを[]つ真似をする。
「はい、はい。申し訳もございません」
 さっさと隣に屈みこんだターナを横目に見ながら、テラは苦笑を返した。あの一件以来、一回り成長した彼女は、何だかとても眩しく映る。
「さて! 籠も、いっぱいになったし、そろそろ戻りましょう」
 [ふき][とう]やら、たらの芽やらを、こぼれ落ちそうなほど詰めこんだ籠を掲げ、ターナは満足げに微笑んだ。
 二人並んで山を下りると、ちょうど、ヒリングワーズの港まで荷を取りに行っていた III 種の連中が、倉庫への積み下ろしを終え、裏庭で寛いでいるところだった。いつものように、荷物と一緒に仕入れてきた噂話で、騒々しく盛り上がっている。
「何か、面白い話でもあったかい?」
 ターナの手伝いを終え、テラは奴隷仲間たちの輪に加わった。主人の御者を務めるアントンに、話を振る。
「ああ、とびっきりのがあるよ!」
 アントンは日に焼けた顔をほころばせ、得意げに語った。
「樹海の奥に、ディールっていう小さな農村があるだろう? そこで猟師をしていた娘が、何と、奴隷として、皇帝陛下に召し上げられたんだ!」
「……何だと?」
 テラは、一瞬にして、頭に血が上るのを感じた。ドクドクと嫌な動悸が、全身を駆け巡る。
 落ち着け。まだ、そうと決まった訳じゃない。
 確信に近い予感を、テラは、懸命に勘違いだと思いこもうとした。村にいる女の猟師は、サイファ一人ではないのだから、と。
 だが、所詮、無駄な努力だった。
「何でも、白い鷲を捕まえたとかで、陛下に献上しに行ったらしいんだけどね、その狩人っていうのが、また、銀髪碧眼の、たいそうな別嬪だっていうんだよ!」
 皇帝の寵愛を受ける I 種だなんて、どれほど美しいんだろう? 一度でいいから拝んでみたいもんだ、と無邪気に笑うアントンの声が、酷く遠くに聞こえた。
(サイファ……)
 テラは奥歯を強く噛み締めた。
 昔から、ずっと恐れていたことだった。
 片田舎で燻っているのが不思議なほど、美しすぎたサイファ。いつか、その美貌が貴人の目に留まり、自分の元から去ってしまう日が来るのを、心のどこかで、息つめて待っていたような気がする。
『なぁ、テラ。今度は、いつ会える?』
 ふいに、懐かしい声が耳に蘇った。村を出る時、見送りに来てくれたサイファの瞳は、[こら]えた涙で[つや]やかに潤んでいた。
『そうだなぁ……春になったら、かな?』
 あの時、テラは曖昧に答えた。ハナイから、そう言われていた訳ではなかった。ただ、何となく、思いついた季節を、口にしただけだった。
『春だね? 絶対だぞ?』
『絶対? それは、約束できねぇなぁ』
『いいから、約束してよ!』
 我が儘な子供みたいに、サイファは強引に指きりをした。まるで、近い将来、自分が、その約束を破ることになると、わかっていたかのように……。
「……達者でな」
 テラは口中で、低く[]ちた。
 愛した少女は、永遠に手の届かないところへ行ってしまった――。
 こみ上げる感傷を払いのけるように振り仰いだ先には、碧空[へきくう]を埋め尽くす、一面の花吹雪。
 それぞれの花が行き着く場所は、杳として知れない。
終   - 2010.04.11 -

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* 反転させて読んで下さい。
『奴隷 I 種』 番外編、第七弾でございます。
今回のお題は、「テラの奴隷 III 種な日々」でございました。
このテーマは、メルマガ読者様への感謝企画として、神沢が幾つかご提示したものの内の一つでした。そのため、読者様からの完全リクエストとは違って、自由に、のびのびと書くことができました。
その結果、あんまりのびのび≠オ過ぎて、テラの[ただ]れた日常を暴露する物語で落ち着いてしまった次第です(^^;)
ごめんよ、テラ。君の数少ない女性ファンを、全て敵に回してしまったかもしれない(笑)。
でも、作者的には、思い入れのある、お気に入りの作品に仕上がりました(^-^)v
本編では出番の少ないテラに、こうして活躍の場を与えて下さった読者様(投票して下さった皆様)に、心から感謝いたします。
神沢 青
 
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